掛川城
所在地 | 静岡県掛川市掛川 |
形式 | 平山城 |
主な城主 | 朝比奈泰朝・山内一豊 |
遺構 | 二の丸御殿・太鼓櫓・大手門番所・石垣・堀・ |
井戸 | |
指定・選定 | 日本100名城 |
訪城年月日 | @2000年11月4日 |
A2019年11月21日 | |
満足度 | A B C D E |
登城難易度 | A B C D E |
太鼓櫓
〜三の丸から本丸荒和布(あらめ)櫓跡に移築された〜
天守閣
〜天守は木造で復元され、日本初の木造復元天守となった〜
天守閣(平成6年復元)
二の丸御殿御書院上の間
二の丸御殿(現存、重文)
〜文久元年(1861)再建。藩主が居住し政務が行われた〜
十露盤(そろばん)堀
三日月堀
掛川城は、戦国時代の文明年間(1469〜86)、駿河守護大名今川義忠が遠江支配の拠点として、重臣朝比奈泰煕に築かせたことに
始まります。
桶狭間の戦(1560)で今川義元が織田信長によって倒されると、永禄11年(1568)義元の子氏真は武田氏に駿河を追われ、掛川城に立て籠りました。翌年、徳川家康は、掛川城を攻め長期にわたる攻防の末、和睦により開城させました。家康領有後、重臣石川家成が入城し、甲斐からの武田氏侵攻の防御の拠点となりました。
天正18年(1590)全国平定を達成した豊臣秀吉は、徳川家康を関東へ移すと、家康旧領地には秀吉配下の大名を配置し、掛川城には山内一豊が入りました。一豊は多くの戦乱により傷んだ城の改築や城下の整備を行うとともに、この時初めて天守閣をつくりました。
江戸時代には、掛川城は徳川親藩の松平氏や、江戸城を築いた太田道灌の子孫太田氏など11家26代の居城として栄えました。貴族的な外観をもつ天守閣の美しさは、「東海の名城」と謳たわれました。しかし、嘉永7年(1854)大地震により天守閣など大半が損壊。御殿、太鼓櫓、蕗(ふき)の門などの一部を除き、再建されることなく明治維新を迎え、明治2年(1869)廃城となりました。
その後、御殿は様々に使用されながら残りましたが、天守台や本丸の跡など一帯は公園とされてきました。掛川市民の熱意と努力が実を結び、天守閣は140年ぶりに木造により再建され、ふたたび美しい姿を現しました。
<掛川城パンフレットより>
掛川城絵図(正保城絵図による)
掛川城
本丸跡
〜本丸にも当初御殿があったが、老朽化や災害のため、
政庁は二の丸御殿に移された〜
太鼓櫓(現存)
二の丸御殿玄関
大手門番所(現存)
大手門(平成7年復元)
掛川城地図
霧吹井戸(天守丸)
天守内部
天守閣
本丸に通じる四足門(復元)