鹿児島城
大手口にある案内図
所在地 | 鹿児島県鹿児島市城山町 |
形式 | 平山城 |
主な城主 | 島津家久 |
遺構 | 石垣・堀・石橋 |
指定・選定 | 県指定史跡・日本100名城 |
訪城年月日 | 2014年7月22日 |
満足度 | A B C D E |
登城難易度 | A B C D E |
ぎ ぼ し
鶴が翼を広げた形をしていることから鹿児島城は別名鶴丸城と呼ばれていました。
1601年(慶長6)、関が原合戦の後、島津家18代家久が上山城(城山)の補修と麓の居館づくりを思い立ち、父義弘の「ここは海に近すぎて危ない」という反対を押し切って着工します。家久はこの地を政治・経済の中心地として城下町の建設を始めたのです。まず居館を築き、その周辺に家臣の屋敷を移し、1606年(慶長11)城の前の橋が完成したとされています。
城といっても本丸、二の丸、下屋敷が並び、天守閣や層楼のない屋形づくりでした。これは、「城をもって守りと成さず、人をもって城と成す」という薩摩藩流の思想によるもので、藩内の各所には兵農一致の郷士団が守る外城がめぐらされていました。
城下は鶴丸城を中心に武家屋敷、その外側に上町6町、下町12町、そして西田町4町が設けられ、5,000人余りの町人が集められましたが、圧倒的に武士の多い城下町だったようです。
維新後は、熊本鎮台の分営として使われ、1873年(明治6)炎上。残されたのは城壁と擬宝珠つきの石橋だけとなりました。
<現地案内板より>
第18代当主(初代薩摩藩主)・島津家久の墓
第17代当主・島津義弘の墓
第16代当主・島津義久の墓
第15代当主・島津貴久の墓
島津氏の菩提寺で歴代当主の墓がある福昌寺(ふくしょうじ)跡
〜鹿児島市池之上町〜
二の丸跡
〜藩主の世子や隠居の居宅などがあったが、西南戦争の際、
官軍の攻撃を受けて炎上した。現在は県立図書館が建つ〜
本丸跡には天璋院(篤姫)の銅像が建つ
黎明館の背後にそびえる城山
〜西南戦争の際、西郷隆盛が最後に立て籠もった山である〜
本丸跡
〜藩主の居館や政庁があったが、明治6年に失火によって
焼失し、現在は歴史資料センター「黎明館」が建っている〜
大手口の石垣には西南戦争時の弾痕が数多く残る
大手口は枡形構造となっている
大手口に架かる石橋(現存)。石橋の向こうには御楼門と
呼ばれる櫓門があった。
本丸石垣と水堀
〜堀一面にハスが咲いている〜
本 丸
大手口から本丸へ続く坂
二 の 丸
鹿児島城
本丸石垣と水堀