岩槻城
所在地 | 埼玉県さいたま市岩槻区太田 |
形式 | 平城 |
主な城主 | 太田資頼・太田資正・阿部氏・大岡氏 |
遺構 | 門・曲輪・空堀・土塁 |
指定・選定 | 県指定史跡 |
訪城年月日 | 2023年10月12日 |
満足度 | A B C D E |
登城難易度 | A B C D E |
本丸跡説明版(拡大可)
本丸の石碑と説明版
城址公園の北方にある足利銀行岩槻支店付近が本丸跡で、
建物の傍らに本丸の石碑が建っている
裏門(現存、市指定文化財)
〜裏門とは呼ばれているが、実際、城内のどこにあった
門なのかは不明である〜
黒門(現存、市指定文化財)
〜現在はこの場所にあるが、実際、城内のどこにあった
門なのかは不明である〜
鍛冶曲輪の土塁
鍛冶曲輪に建つ城址碑
〜岩槻城は別名「白鶴城」と呼ばれる〜
空堀(鍛冶曲輪南側)
土塁(鍛冶曲輪北側)
城址公園内
〜公園は岩槻城の新曲輪・鍛冶曲輪があった場所にある〜
現在、城跡は「岩槻城址公園」となっている
岩槻城絵図(黒門のそばにある案内板より)
岩槻城は室町時代末に築かれた城郭です。築城者については太田道灌とする説、父の太田道真とする説、そして後に忍(現行田市)城主と
なる成田氏とする説など様々です。
16世紀の前半には太田氏が城主となっていましたが、永禄10年(1567)三舟山合戦(現千葉県富津市)で太田氏資が戦死すると小田原城
の北条氏が直接支配するところとなりました。
北条氏は、天下統一を目指して関東への進出を図っていた豊臣秀吉と対立。やがて天正18年(1590)5月20日からの豊臣方の総攻撃を
受けた岩槻城は2日後の22日に落城してしまいました。同年、豊臣秀吉が北条氏を滅ぼすと徳川家康が江戸に入り、岩槻城も徳川の家臣
高力清長が城主となりました。
江戸時代になると岩槻城は江戸北方の守りの要として重要視され、幕府要職の譜代大名の居城となりました。
室町時代から江戸時代まで続いた岩槻城でしたが、明治維新後に廃城となりました。城の建物は各地に移され土地は払い下げられて、
およそ400年の永きにわたって続いた岩槻城は終焉の時を迎えました。
岩槻城が築かれた場所は現在の市街地の東側で、元荒川の後背湿地に半島状に突き出た台地の上に、本丸、二の丸、三の丸などの主要
部が、沼地をはさんで北側に新正寺曲輪が、沼地をはさんだ南側に新曲輪がありました。主要部の西側は堀によって区切られ、さらにその西側
には武家屋敷や城下町が広がっていました。また城と城下町を囲むように大溝が造られました。
城というと、一般的には石垣や天守閣がイメージされますが、岩槻城の場合、石垣は造られず、土を掘って堀を造り、土を盛り上げて土塁を
造るという、関東では一般的な城郭でした。
現在では城跡のなかでも南端の新曲輪・鍛冶曲輪跡(現在の岩槻公園)が県史跡に指定されています。どちらの曲輪も戦国時代末に北条氏
によって造られた出丸で、土塁・空堀・馬出など中世城郭の遺構が良好に残されており、近年の発掘調査では北条氏が得意とした築城術である
障子堀が見つかっています。
<現地案内板より>
岩槻城
空堀(鍛冶曲輪西側)
新曲輪と鍛冶曲輪の間にある空堀
菖蒲池
〜この池はかつての沼の一部である〜
八ツ橋
鍛冶曲輪