岩櫃城
所在地 | 群馬県吾妻郡東吾妻町大字原町 |
形式 | 山城 |
主な城主 | 斎藤憲広・真田幸隆・真田昌幸 |
遺構 | 曲輪・土塁・空堀・竪堀 |
指定・選定 | 国指定史跡・続日本100名城 |
訪城年月日 | 2022年10月20日 |
満足度 | A B C D E |
登城難易度 | A B C D E |
車での登城 | 可(山腹駐車場まで) |
本丸北枡形虎口
本丸跡
本丸跡
本丸〜二の丸間の空堀(階段上が本丸)
本丸〜二の丸間の空堀
二の丸跡
中城跡から本丸跡に至る登山道(尾根通り)
中城跡
中城跡
〜登山口から5分程で中城(三の丸に相当)跡に着く〜
平沢登山口(山の東側)
〜ここから本丸跡まで徒歩約10分である〜
平沢登山口の「尾根通り」から登る
縄張図(平沢登山口に設置された案内板より)
岩櫃城は岩櫃山(標高802m)の中腹東面に築かれた典型的な中世の山城であり、山頂より約200m低い場所に本丸・二の丸・中城があり、
これらを中心に広い範囲で竪堀や曲輪が点在します。
岩櫃城はその築城時期や築城者については定かではありませんが、文献によれば南北朝の時代に初めて岩櫃城主吾妻太郎行盛の名が
登場します。行盛は、南北方の豪族里見氏に攻められ自害したと伝えられます。その後行盛の子、憲行が関東管領上杉氏の支援によって
岩櫃城を奪回し、その後、斉藤越前守憲広(基国)まで6代にわたる東吾妻支配の本拠となりました。
戦国時代の上州は甲斐武田氏、越後上杉氏、小田原北条氏による支配権争いが繰り広げられ、永禄6年(1563)斉藤越前守憲広(基国)の
本城であった岩櫃城は武田信玄の家臣である真田幸綱(幸隆)の手によって落城し、武田氏の西上野支配が確立しました。幸綱の推挙により、
武田信玄から岩櫃城代に海野長門守幸光が命ぜられ、真田の先兵となり17年の長きにわたり吾妻の地を守りました。天正9年の海野兄弟
誅殺の後、岩櫃城は真田昌幸の嫡男信幸を城代とし、弟である信繁(幸村)がここで一時代を過ごしたとも言われています。
武田氏の滅亡後この地は真田氏の支配となり、岩櫃城は信州上田城から上州沼田城を結ぶ真田道の中間地点として重要な位置を占める
こととなりました。
徳川幕府開設後も吾妻地域は真田氏の支配となりましたが、徳川家康による「一国一城令」に伴い、慶長20年(1615)頃、真田信幸は
城下町を現在の原町に移し岩櫃城を破脚し、岩殿城、久能山城と並び武田の三堅城といわれた岩櫃城も戦国時代の終焉と共にその役割を
終えました。
<現地案内板より>
岩櫃山
〜巨岩に覆われた荒々しい山容に圧倒される。城は山頂ではなく、東側(写真右方)の中腹に築かれていた〜
杉山城
岩櫃城の説明板(拡大可)
本丸櫓台に建つ城址碑と説明板
本丸櫓台
本丸櫓台
本丸〜二の丸間の空堀
本丸〜二の丸間の空堀