い ば ら き
茨木城
所在地 | 大阪府茨木市片桐町(茨木小学校) |
形式 | 平城 |
主な城主 | 茨木長隆・茨木重朝・中川清秀・片桐且元 |
遺構 | 搦手門(移築) 他 |
指定・選定 | なし |
訪城年月日 | 2017年3月12日 |
満足度 | A B C D E |
登城難易度 | A B C D E |
茨木城は室町時代から戦国時代にかけて摂津国上郡の国人領主・茨木氏の居城であった。中でも茨木長隆は室町幕府管領の細川晴元に仕え、その政権下で中心的役割を担った。元亀2年(1571)、茨木重朝の代に茨木城は荒木村重・中川清秀に攻められて落城。茨木氏は滅亡し、代わって中川清秀が城主となった。天正11年(1583)、清秀は賤ヶ岳の戦いで戦死し、子の秀政が城主となったがその3年後に播磨三木へ転封となり、茨木は豊臣秀吉の直轄地となった。秀吉の死後、慶長6年(1601)、片桐且元・貞隆兄弟が城主となったが、元和元年(1615)の一国一城令によって廃城となった。現在の茨木小学校辺りが城跡と推定されているが、遺構は宅地化によって消滅している。
小学校の北側にある本丸跡
茨木城
梅林寺
〜中川清秀の画像や秀吉が清秀に宛てた書簡が
保存されている〜
搦手門内側にある説明板
小学校の南西にある茨木神社には茨木城の搦手門が移築
されていると伝わる
櫓門の内側にひっそりと建つ城址碑
小学校正門横に復元された櫓門
城跡に建つ市立茨木小学校
〜小学校の位置は本丸の南側から二の丸部分にあたると
推定されている〜
小学校の南方にある梅林寺には中川清秀・淵之助兄弟の
墓がある