人吉城
中の御門跡
所在地 | 熊本県人吉市麓町 |
形式 | 平山城 |
主な城主 | 相良義滋・晴広・義陽 |
遺構 | 石垣・曲輪 |
指定・選定 | 国指定史跡・日本100名城 |
訪城年月日 | 2014年7月22日 |
満足度 | A B C D E |
登城難易度 | A B C D E |
本丸跡
二の丸石垣(石垣上が二の丸)
二の丸石垣(石垣上が二の丸)
於津賀社跡からの眺望(川は球磨川)
中の御門跡
中の御門跡
〜三の丸から二の丸へ続く櫓門があった〜
御館(みだち)跡庭園
御館(みだち)跡
〜城主の居館があり藩政の中枢となった場所で、
現在は相良護国神社が建つ〜
大手門脇に復元された多聞櫓(平成5年復元)
人吉城は、もともと平氏の代官がいた城でしたが、遠江国(静岡県中部)相良の出身で人吉荘の地頭となった相良長頼が、建久9年(1198)
に城主となり、翌年より修築したと伝えられています。その修築の時、三日月の文様のある石が出土したので、別名を三日月城あるいは繊月城
とも言います。
人吉城が史料に初めて出るのは、大永4年(1524)のことです。この頃(室町時代)の人吉城は、原城と呼ばれる城跡東南の台地上にあった
山城で、素掘りの空堀や掘切によって守られていた城でした。
室町時代に球磨郡を統一した相良氏は、やがて芦北・八代・薩摩方面へと領土の拡大を図り、戦国大名として発展します。しかし、天正15年
(1587)の豊臣秀吉の九州征服により、球磨郡のみを支配することになり、以後は石高22,165石の人吉藩として明治4年(1871)の廃藩置
県まで存続しました。
人吉城が石垣造りの近世城として整備されるのは天正17年(1589)からで、何度か中断をしながらも、51年後の寛永16年(1639)に現在
見られる石垣が完成しています。
球磨川と胸川を天然の濠とした人吉城は、本丸・二の丸・三の丸・総曲輪からなる平山城です。大手門・水の手門・原城門・岩下門によって区切
られる城の周囲は、2,200メートルもあり、広大です。本丸には天守閣は建てられずに二階建の護摩堂が建てられ、二の丸と三の丸の西側麓
には城主の屋敷がありました。城の周辺の総曲輪は、上級武士の屋敷となり、川岸近くには役所や倉庫が置かれました。
水の手門近くの『武者返し』と呼ばれる石垣は、幕末に導入された欧州の築城技術である槹出(はねだし)工法で築かれたものとして有名です。
城内の建造物は、廃藩置県の後に取りこわされて残っていませんが、保存のよい石垣が人吉城の姿を今に伝えています。
<現地案内板より>
人吉城
願成寺裏手にある相良家墓地(県指定史跡)
左から16代義滋(よししげ)、17代晴広、18代義陽(よしひ)、
19代忠房の墓
相良家の菩提寺である願成寺(がんじょうじ)
〜人吉市願成寺町、初代相良長頼が創建した〜
球磨川対岸から見た人吉城跡
本丸跡
〜はじめ「高御城(たかおしろ)」と呼ばれ、地形的には天守
台に相当するが、天守閣は建てられず、護摩堂、御先祖堂、
時を知らせる太鼓屋、山伏番所があった〜
二の丸跡
〜江戸時代初期、ここは「御本丸」と呼ばれ、城主の住む
御殿があった〜
中の御門跡
三の丸にある於津賀(おつが)社跡
〜初代相良長頼が入国する以前に人吉城主であった平氏
の代官の矢瀬主馬祐(やぜしゅめのすけ)を祀る霊社跡〜
三の丸跡
御下門の石垣
米蔵跡に建つ城址碑
ここから城内へ(水ノ手門跡付近)
水ノ手門跡
〜球磨川(くまがわ)に面した城門で門の外に船着場があった〜
堀合門(ほりあいもん)と武者返しの石垣
〜御館(みだち)の北側にあった裏門で平成19年に
復元された〜
大手門跡(奥の建物は人吉市役所)
二の丸跡に設置されている案内板に描かれた城内図
埋御門跡
中の御門の西方にはもう1ヶ所二の丸に通じる門(埋御門)
の跡がある
御下門跡(内側から)
御下門(おしたもん)跡
〜三の丸・二の丸・本丸へ続く櫓門があった〜