姫路城

 所在地  兵庫県姫路市本町
 形式  平山城
 主な城主  黒田孝高・木下家定・池田輝政
 遺構  天守閣・櫓・門・塀・石垣・堀・土塁・井戸
 指定・選定  国指定特別史跡・世界遺産・日本100名城
 訪城年月日  2003年9月14日 他
 満足度   B C D E
 登城難易度  A B C D 

城の北側、勢隠曲輪にある北勢隠門跡

南勢隠門跡

「る」の門(内側)

「る」の門(外側)

備前丸(本丸)直下の石垣

「り」の門

太鼓櫓(現存、重文)

「は」の門(正面)と「は」の門南方土塀(右手)
      〜どちらも現存、重文〜

「い」の門(現存、重文)

              化粧櫓内部
〜化粧櫓は千姫が本多忠刻に輿入れする際の化粧料10万
石で建てられた〜

化粧櫓内部

西の丸南門跡

               三の丸広場
〜本多忠政以降、藩主はこの三の丸の御殿に居住していた〜

      菱の門(現存、重文)
〜三の丸から二の丸に通じる門である〜

大手門付近の内堀

縄張図(県立歴史博物館内)

明治初期の鳥瞰図(菱の門を入った所にある)

  播州平野の中心  姫山の上に、白い高雅な姿を見せて姫路城がそびえる。白鷺の飛び立つ様に似て白鷺城とも呼ばれ、西南の役で熊本城が、そして太平洋戦争で名古屋城も昔ながらの面影を留めていない今日、姫路城は名実ともに日本一の名城である。姫路城の歴史は、遠く1333年(元弘3年)にさかのぼる。播磨国の守護職、赤松則村が護良親王の令旨を奉じ北条氏討伐の兵をあげて、ここに砦を築き、1346年(正平元年)則村の子、貞範が城館を初めて築いたのである。(最近の研究によれば、赤松築城説を否定し、築城は16世紀中頃の黒田重隆、職隆父子以前にはさかのぼれないとする説が出されている。)−昭和63年(1988年)刊行・姫路市史第14巻「別編 姫路城」−
  その後、羽柴秀吉が黒田孝高の勧めに従い、毛利氏攻略の根拠地として1581年(天正9年)三層の天守を築いたが、関が原の戦のあと播磨領主に封ぜられた徳川家康の女婿、池田輝政が1601年(慶長6年)から8年の歳月をかけて完成したのが、現在の五層七階の天守である。
  これは西国にある豊臣恩顧の諸将に対峙する西国探題職として、家康がこのように大規模な城を築かせたのである。
  そして池田氏のあと入部した本多忠政のとき、その子忠刻の室に千姫を迎え化粧櫓や西の丸を築き、1618年(元和4年)今日見られるような全容を整えた。
  その後城主は松平、榊原の諸氏を経て酒井氏が世襲して明治に至った。明治初代、この城も廃棄される運命にあったが、陸軍省中村重遠大佐の建言により保存された。そして幸い太平洋戦争下の被爆もまぬがれた。
  昭和6年(1931年)には大天守、西小天守、乾小天守、東小天守とこれを結ぶ4棟の渡櫓が国宝に、それ以外の建造物74棟の建物が重要文化財に指定され、昭和31年(1956年)中濠以内107haが特別史跡に指定された。また、平成5年(1993年)12月日本で初の世界遺産に登録された。
                                                                         <現地案内板より>

姫路城

INDEX

清水門跡(北勢隠門の外側)

「り」の一渡櫓(現存、重文)

「ぬ」の門(現存、重文)

天守(三の丸広場より)

天守(備前丸より)

天守(三国堀前より)

奥に大天守、手前右側が西小天守、
手前左側が乾小天守(いずれも現存、国宝)

水三門

西の丸の化粧櫓(現存、重文)

西の丸の「ヨ」の渡櫓(現存、重文)

「ワ」の櫓

西の丸の「カ」の櫓(右)と「ワ」の櫓(左)
    〜どちらも現存、重文〜

三国堀

 概説

扇の勾配(備前丸石垣)

お菊井戸(上山里曲輪)

乾小天守

「ほ」の門

「に」の門(現存、重文)

大手門(昭和13年再建)