ひ き だ
疋壇城
所在地 | 福井県敦賀市疋田 |
形式 | 平山城 |
主な城主 | 疋壇久保 |
遺構 | 曲輪・石垣・空堀・土塁 |
指定・選定 | 県指定史跡 |
訪城年月日 | 2014年9月14日 |
満足度 | A B C D E |
登城難易度 | A B C D E |
疋壇城
本丸東側空堀の石垣
本丸東側の空堀
本丸北側
〜本丸の北側は畑になっており、畑を管理されている方から
疋壇城についていろいろと教わった〜
本丸南側
〜本丸の南側は西愛発(にしあらち)小学校の跡地で、
現在ゲートボール場になっている〜
天正元年(1573)、朝倉義景は浅井長政救援のため近江へ
出陣したが織田信長に大敗し、この疋壇城に命からがら逃げ
込んだ。そしてここから本拠の一乗谷へ帰還し、滅亡した。
天守台上は城址碑があるのみである
天守台は2段になっている
天守台(北面)石垣
天守台(北面)石垣
天守台(北面)
天守台(南面)
本丸跡にある城址碑と説明板
この疋壇城は、文明年間(室町時代 1469 1487)に、朝倉氏の将、疋壇対馬守久保が築いたものである。
この地は、柳ヶ瀬越・塩津越・海津越の主要江州路が集まる交通軍事上の要衝であるので、朝倉越前の最南端防衛拠点として築城されたものであり、本城の東・南・西の三方には、それぞれ出城も設けられていたと思われる。
しかし、この城が栄えたのは100年間ぐらいで元亀元年(1570)織田信長が天筒山城を攻略した際に金ヶ崎城と共に、この城も破却された。信長軍の撤収後に一旦は修復されたらしく朝倉の臣栂野三郎右衛門尉景仍等が布陣した記録もあるが天正元年(1573)8月、信長再度の越前進撃に依り城主疋壇六郎三郎は打死し、城は完全に破却された。
それからここに400有余年、今も遺る石塁塹壕跡が名残りをとどめ、そこかしこに遺る小字名と共に往時を物語っている。
<現地案内板より>