八丁目城
所在地 | 福島県福島市松川町伊藤 |
形式 | 山城 |
主な城主 | 伊達実元 |
遺構 | 曲輪・土塁・空堀 |
指定・選定 | なし |
訪城年月日 | 2018年4月20日 |
満足度 | A B C D E |
登城難易度 | A B C D E |
車での登城 | 可(山腹のまつかわ西幼稚園前まで) |
二の郭奥に建つ忠魂碑
二の郭に向かう途中にある帯曲輪
主郭
~最高所に位置し、東西40m、南北50mの広さがある~
主郭下の帯曲輪
主郭下からの眺望
主郭奥にある毘沙門天の祠
八丁目城
八丁目城は戦国時代の16世紀、伊達稙宗(陸奥守護・桑折西山城主)の支城として築かれた。
子息晴宗と戦った天文の乱には、天文12年(1543)8月から1年半ほど稙宗が在城している。
城主は初め、堀越能登守だったが、天文の乱に勝利した晴宗(奥州探題・米沢城主)は清野備前守・遠江守父子を城主にすえた。
遠江守が晴宗の子輝宗に切腹させられた後、復帰した堀越能登守はやがて伊達氏に背き、二本松畠山氏に通じたが、天正2年(1574)大森城主伊達実元(晴宗の弟)が、この城を奪回した。
実元が八丁目城に隠居した後は、その子成実が、また天正14年以後は政宗の重臣片倉小十郎景綱が、大森城主として八丁目城を支配した。
天正18年、秀吉の奥羽仕置により城は破却されるが、おおよその城構えは残されて現在に至り、貴重な文化遺産となっている。
築城に際し南約1kmの字宿地から移されて成立した八丁目の城下町(本町・中町・天明根町・向町)は廃城後の江戸時代には宿場町として、奥州街道で屈指のにぎわいをみせた。
<現地案内板より>
伊達実元の墓
~境内の一番奥(本堂裏手)にある~
伊達稙宗の墓
~駐車場東側の上り坂の途中にある~
二の郭
~二の郭には八幡神社(石祠しかないが)と忠魂碑が建つ~
二の郭下にある帯曲輪。鳥居の上が二の郭である。
やがて主郭の入口に到達し、階段を登って主郭へ。傍らの石碑には
「西光寺愛宕堂」 と記されている。西光寺とは城の南方、水原川の
南畔にある寺である。
階段を登ると主郭下の帯曲輪があり、愛宕堂が建っている。
堂の左側階段の上が主郭である。
主郭への直線道は途中から右方向へ折れ、曲輪の合間を縫うよう
に続いている。
⇐二の郭へ
⇑
主郭へ
八丁目城から北西約10kmの場所(福島市小田字位作山)にある
陽林寺には伊達稙宗・実元の墓がある
まつかわ西幼稚園前から二の郭へ至る道を進む
こおり
主郭下の帯曲輪
~主郭を取り囲むように一周廻っている~
まつかわ西幼稚園の前から一直線に伸びる道を行くと主郭方面へ、左方向への道を行くと二の郭(仮称)へ至る。
この場所に道しるべが欲しいところである。