は し た に

端谷城

 所在地  兵庫県神戸市西区櫨谷(はせたに)町寺谷
 形式  山城
 主な城主  衣笠範景
 遺構  曲輪・堀切・土塁
 指定・選定  市指定史跡
 訪城年月日   2022年11月5日
 満足度  A B  D E
 登城難易度  A B C  E
 車での登城  不可

  端谷城が築かれた詳細な時期は不明ですが、城主の衣笠氏は鎌倉時代の中頃には櫨谷の荘園を治めていたと考えられます。室町時代には、赤松氏に属し応仁の乱(1467〜77年)などで活躍し、その功により衣笠の姓を得たと伝えられています。
  その後は、福中城の間嶋氏(平野町福中)などと勢力争いを続け、勢力拡大に伴い櫨谷の谷筋に池谷城、福谷城、城ケ市城、城ケ谷砦など
衣笠氏一族のものと考えられる城や砦を築いています。
  戦国期に入り、別所氏(三木城)が勢力をのばし、やがて東播磨の覇者となった時、端谷城もその支城の役割を果たすようになります。
  天正6年(1578)、羽柴秀吉の三木城攻めが開始され、当時の端谷城主衣笠範影は淡河城の淡河氏、福中城の間嶋氏らとともに別所方として
活躍しましたが、三木城落城後の天正8年2月25日に落城し、廃城となりました。今日に残る遺構は、この時のものです。
  堀切によって丘陵の一部を切断するなどの大土木工事のすえ、急峻、堅固な城塞を築きあげた背景として櫨谷、東播磨全体が緊迫した状況に
あったことが、残された遺構から読み取ることができます。
  櫨谷を守り続けた端谷城は落城から400年以上たちましたが、市内で最も保存状態が良好な山城です。当時の櫨谷の状況を知ることのできる
貴重な遺構で、歴史遺産として後世に守り伝えていかなければなりません。
                                                                            <現地案内板より>

      山麓の大手口(満福寺下)
〜この付近に城主の居館があったとされる〜

端谷城

INDEX

本丸北西隅にある物見台

本丸説明板(拡大可)

本丸跡

本丸跡

二の丸切岸

二の丸説明板(拡大可)

二の丸跡

二の丸跡

三の丸〜二の丸間の堀切

寺の脇に城跡に至る道がある

満福寺(三の丸跡)

大手口(満福寺下)に建つ城址碑

縄張図

 概説

         本丸物見台上部
〜物見台の跡らしいが、眺望は全くきかない〜

城跡遠望

案内板と城跡遠望