長谷堂城
八幡口にある城跡公園の案内板
所在地 | 山形県山形市長谷堂 |
形式 | 山城 |
主な城主 | 志村光安(あきやす)・坂光秀(あきひで) |
遺構 | 曲輪・土塁・空堀 |
指定・選定 | なし |
訪城年月日 | 2022年5月11日 |
満足度 | A B C D E |
登城難易度 | A B C D E |
車での登城 | 不可 |
長谷堂観音の釣鐘
主郭南側にある曲輪群
〜主郭から南方向に向かって曲輪が段々に造成されている〜
八幡口(北側登山口)にある「長谷堂城の戦い」の説明板
主郭南曲輪群に建つ春日神社
主郭
〜「長谷堂城址」と記された石碑が建つ〜
主郭
主郭にある説明板
主郭
〜最高所に位置し、広さは東西約60m、南北約55mある〜
主郭虎口にある稲荷神社
帯曲輪
帯曲輪
八幡口に復元された水堀
八幡口に復元された水堀
城跡公園の案内図(上記案内板)
ここ長谷堂城跡は、山形城の西南約7キロに位置し、標高227メートル、比高約85メートルの独立丘陵に築かれた山城で、古くから天然の要害の地であった。
この地に城砦が築かれた時期は明らかではないが、永正11年(1514)置賜の伊達稙宗軍に一時占拠されたという文献が残されており、
少なくともそれ以前であったと考えられている。
その後、最上領西南の守りとして、本沢川から導水して深堀をめぐらし、土塁を築く等強固な城砦に整備された。
慶長5年(1600)「出羽の関ヶ原合戦」といわれた攻防戦があり、全国きっての智将、会津の上杉景勝の家老直江山城守兼続が、山形の
最上義光を攻めた合戦の折、最上軍の将、志村伊豆守光安が長谷堂城に拠って、2万数千の大軍の猛攻撃から、半月間にわたって凌ぎ城を
守りきった。
このことから、長谷堂城は「難攻不落」として戦史に残る事になる。
戦後、光安は加増され庄内酒田の亀ヶ崎城主となり、その後、成沢城から坂紀伊守光秀が移封され、長谷堂城下の整備に尽くした。元和
2年(1616)光秀の没後、光重が後を継いだが、元和8年(1622)最上家改易と同時に廃城となった。
山形市の調査により、中世の城郭跡としてこれだけの虎口や曲輪の跡が残されているのは珍しく、学術的・文化的価値の高い史跡である
ことが明らかにされている。
<現地案内板より>
長谷堂城
二重横堀
二重横堀
長谷堂観音
長谷堂観音のある曲輪
主郭南曲輪群
主郭南曲輪群
主郭からの眺望
八幡神社のある曲輪
八幡口
〜ここから山頂の主郭まで徒歩15分程度である〜
城山遠望
主郭南曲輪群
曲輪