鉢形城

 所在地  埼玉県大里郡寄居町鉢形
 形式  平山城
 主な城主  長尾景春・北条氏邦
 遺構  曲輪・空堀・土塁・石垣
 指定・選定  国指定史跡・日本100名城
 訪城年月日  2015年10月23日
 満足度   B C D E
 登城難易度  A B C  E
 車での登城  

         三の曲輪にある馬出
〜四角い形の馬出は「角馬出(かくうまだし)」と呼ばれ、
後北条氏系城郭の特徴といわれる〜

           三の曲輪
〜この辺りは城内でも特によく整備されている〜

     笹曲輪に建つ城址碑
〜この辺りは城の搦手口にあたる〜

               笹曲輪
〜笹の葉のように小さい曲輪という意味で、本曲輪を防御
するために本曲輪の外側に設けられた〜

笹曲輪にわずかに残る石垣

御殿曲輪にひっそりと建つ本丸址の碑

             御殿曲輪
〜本丸に相当する場所で、城主の居館などがあった〜

  鉢形城跡は、戦国時代の代表的な城郭跡として、昭和7年に国指定史跡となりました。指定面積は約24万uです。
  城の中心部は、荒川と深沢川に挟まれた断崖絶壁の上に築かれていて、天然の要害をなしています。この地は、交通の要所に当たり、上州や信州方面を望む重要な地点でした。
  鉢形城は、文明8年(1476)関東管領であった山内上杉氏の家宰長尾景春が築城したと伝えられています。後に、この地域の豪族藤田康邦に入婿した、小田原の北条氏康の四男氏邦が整備拡充し、現在の大きさとなりました。関東地方において有数の規模を誇る鉢形城は、北関東支配の拠点として、さらに甲斐・信濃からの侵攻への備えとして重要な役割を担いました。
  また、鉢形城跡の周辺には、殿原小路や鍛冶小路などの小路名が伝わっており、小規模ながら初期的な城下町が形成されていたことが窺えます。
  天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めの際には、後北条氏の重要な支城として、前田利家・上杉景勝等の北国軍に包囲され、激しい攻防戦を展開しました。1ヶ月余りにおよぶ籠城の後、北条氏邦は、6月14日に至り、城兵の助命を条件に開城しました。
  開城後は、徳川氏の関東入国に伴い、家康配下の成瀬正一・日下部定好が代官となり、この地を統治しました。
                                                                         <現地案内板より>

鉢形城

INDEX

荒川に架かる正喜橋(しょうきはし)から見た城跡遠望

           荒川対岸から見た城跡
〜断崖絶壁の上に築かれていて、天然の要害をなしている〜

深沢川の対岸に広がる外曲輪

        深沢川
〜天然の堀の役割を果している〜

本曲輪の南側にある土塁

逸見曲輪にある諏訪ノ池(水堀)

二の曲輪南側にある馬出

二の曲輪と三の曲輪の間の空堀

二の曲輪と三の曲輪の間の空堀

三の曲輪にある井戸跡

三の曲輪に復元された石積土塁

三の曲輪に復元された四脚門

三の曲輪

二の曲輪

三の曲輪にある縄張図

 概説

 逸見(へんみ)曲輪にある水堀跡
〜この辺りは城の大手口にあたる〜