岐阜城
所在地 | 岐阜県岐阜市金華山天守閣 |
形式 | 山城 |
主な城主 | 斎藤道三・織田信長・織田信忠 |
遺構 | 曲輪・石垣・土塁・堀切・井戸 |
指定・選定 | 国指定史跡・日本100名城 |
訪城年月日 | @1983年4月 |
A2011年9月23日 | |
満足度 | A B C D E |
登城難易度 | A B C D E |
車での登城 | 不可(ロープウェーあり) |
天守のすぐ東側にある米蔵跡
〜現在は隅櫓を模した資料館が建っている〜
復興天守
〜天守は明治43年に再建されたが、33年後の昭和18年に
失火のため焼失。昭和31年に再び建てられ、現在に至る〜
長良川畔から山頂の岐阜城を望む
天守最上階からの絶景(川は長良川)
軍用井戸
〜二の丸の西にある井戸で「金銘水」と呼ばれている〜
二の丸跡
二の丸門(模擬)
〜ここから二の丸跡に入って行く。周辺の土塀はすべて復元
されたものである〜
岐阜城
岐阜城は、かつて稲葉山城と称していました。金華山頂にはじめて砦を築いたのは、鎌倉幕府の執事二階堂山城守行政と伝えられています。戦国時代には、斎藤道三の居城でもあったところです。特に岐阜城の名を天下に示したのは、永禄10年(1567年)(一説に永禄7年)8月、不世出の英傑織田信長がこの城を攻略し、この地方一帯を平定するとともに、地名も「井の口」を「岐阜」と改称し、天下統一の本拠地としてからでした。しかし、慶長5年(1600年)8月、関ヶ原合戦の前哨戦の際信長の孫秀信が西軍に味方したため、東軍に攻め入られ、激戦の末落城しました。翌慶長6年、岐阜城は廃城となり天守閣、櫓等は加納城に移されました。現在の城は、昭和31年7月、岐阜城再建期成同盟によって復興されたもので、鉄筋コンクリート造り、三層四階構造で延べ461.77u、棟高17.7mの威容を誇ります。城内は一階「武具の間」、二階「城主の間」、三階「信長公の間」となっており、最上階の「望楼の間」は展望台として多くの人に親しまれています。
<岐阜城パンフレットより>
長良川の向こう中央にある小山は鷺山(鷺山城跡)
山麓にある信長居館跡
天守石垣
二の丸跡にある案内図
天下第一の門
〜ロープウェーで山頂に着くと、ほどなくしてこの天下第一の門
が建っている。実際にはここに門はなかったらしいが、信長が
この城を足掛かりに天下統一に乗り出したということにちなんで
建てられた〜