月山富田城

 所在地  島根県安来市広瀬町富田
 形式  山城
 主な城主  尼子経久・晴久・義久
 遺構  曲輪・石垣・堀切・井戸
 指定・選定  国指定史跡・日本100名城
 訪城年月日   @1982年7月
 A2011年11月3日
 満足度   B C D E
 登城難易度  A  C D E
 車での登城  不可

         新宮谷にある新宮党の館跡
〜新宮党は尼子経久の次男国久が率いた尼子軍の精鋭部隊
であった〜

南麓(塩谷側)にある尼子晴久の墓

        本丸跡
〜別名・甲(つめ)の丸とも言う〜

本丸跡から見た二ノ丸跡

三ノ丸石垣

大手門の石垣

         奥書院跡
〜右手に戦没者の慰霊碑が建っている〜

山中御殿跡

               太鼓壇
〜太鼓を吊るした建物があり、皆に時刻を知らせたりした〜

大手門付近にある案内図

月山富田城

月山山頂に着くと三ノ丸の石垣が現れる

富田城跡は、急峻な山である月山を中心とし、周囲の丘陵上にも曲輪や石垣、堀切、土塁などの防御施設を配した大規模な城郭跡です。
戦国期には、尼子氏の居城として繁栄を極め、その後は、毛利氏、吉川氏、堀尾氏と城主が交代し、慶長16年(1611)に堀尾氏が松江城を築きそこに移ったため、その後廃城となりました。富田城は、歴代城主により幾度も改修工事が行なわれたとみられ、様々な時期の遺構が混在しています。昭和9年(1934)には、その歴史的価値が認められ、国の史跡に指定されました。

                                                                         <現地案内板より>

太鼓檀に建つ山中幸盛(鹿之介)の像

本丸跡

     山麓(御子守口)の巌倉寺にある堀尾吉晴の墓
〜堀尾吉晴は関ヶ原合戦後に富田城主となったが、慶長16年
(1611)に松江城を築城して移ったため廃城となった〜

             毛利元秋の墓
〜毛利元秋は元就の五男で、尼子氏滅亡後に富田城主と
なった。新宮谷の宗松寺跡にある〜

富田城の近く洞光寺にある尼子経久の墓(左)
右は経久の父・清定の墓

山中御殿跡の井戸

山中御殿跡の石垣

        本丸跡
〜正面の堀切上が本丸跡である〜

二ノ丸跡

三ノ丸跡

          山中(さんちゅう)御殿跡
〜城主の館があった場所であるが、尼子時代のものかどうか
はわかっていない〜

花ノ壇南側の堀切

花ノ壇と侍所

          花ノ壇(後方の山は月山)
〜かつて多くの花が植えられていたため「花ノ壇」と呼ばれ、
主屋と侍所が復元されている〜

 概説

山中御殿跡から月山への登山口

菅谷口(大手)虎口

                千畳平
〜御子守口(搦手)から入って最初に出くわす曲輪で、兵士
の集合場所であった〜

INDEX

新宮党尼子国久一族の墓(新宮党館跡)

     本丸奥にある勝日高守(かつひたかもり)神社
〜大国主命(おおくにぬしのみこと)が祀られており、尼子時代
は代々城内の守り神であった〜

本丸跡からの眺望