二俣城

 所在地  静岡県浜松市天竜区二俣町二俣
 形式  山城
 主な城主  中根正照・依田信蕃・大久保忠世
 遺構  石垣・曲輪・堀切・土塁
 指定・選定  市指定史跡
 訪城年月日  2013年12月1日
 満足度  A B  D E
 登城難易度  A B C D 
 車での登城  可(山頂の搦手登城口まで)

  二俣城は文亀年間(1501〜3)に今川氏親の家臣・二俣昌長によって築かれたといわれるが、諸説があり定かではない。永禄12年(1569)、今川氏が滅亡すると、二俣城は徳川家康の支配下となった。元亀3年(1572)、武田信玄が西上作戦を起こして信濃から遠江に侵攻し、二俣城を攻撃した。当時の徳川方の城将・中根正照が頑強に守備したため城はなかなか落ちなかったが、やがて城の水の手が切られて落城した。その後、二俣城には武田家臣・依田信蕃(よだのぶしげ)が入った。天正3年(1575)、長篠の戦いで武田勝頼が織田・徳川連合軍に大敗すると、家康は勢いに乗じて二俣城を攻撃し、奪還することに成功した。家康は重臣の大久保忠世を城主とし、城の修築工事を行わせた。現在二俣城跡に残る天守台は忠世の時代に築かれたものと考えられている。以後、天正18年(1590)に家康が関東に移るまで、忠世が城主を務めた。その後、堀尾吉晴が城主となったが、慶長5年(1600)、出雲へ移封となったため、二俣城は廃城となった。なお、大久保忠世が城主であった天正7年(1579)に、家康の長男・信康が武田方に内通したとして、信長の命により、この二俣城で切腹させられている。家康は信康の菩提を弔うため、二俣城近くに清瀧寺(せいりゅうじ)を建立した。

二俣城跡
   ↓

             水の手曲輪
〜ここから天竜川の水を汲み上げて水を確保していた〜

登城口にある案内図

二俣城

INDEX

城跡遠望(川は天竜川)

西曲輪

追手虎口(二の丸虎口)

二の丸跡

二之門跡

一之門跡

天守台

天守台

本丸跡に設置された説明板

天守台上から見た本丸跡
〜紅葉が見頃であった〜

本丸跡

本丸虎口(喰違虎口)

北曲輪(旭ヶ丘神社が建つ)

登城口(搦手)

 概説