大聖寺城
所在地 | 石川県加賀市大聖寺錦町(錦城山公園) |
形式 | 平山城 |
主な城主 | 狩野氏・一向一揆衆・朝倉氏・溝口秀勝 |
遺構 | 曲輪・土塁・空堀・馬洗池 |
指定・選定 | 市指定史跡 |
訪城年月日 | 2019年5月16日 |
満足度 | A B C D E |
登城難易度 | A B C D E |
車での登城 | 不可 |
番所屋敷跡(鐘が丸東下段)
戸次丸・三の丸・西丸への分岐点
二の丸跡
~城内最大の曲輪で台所屋敷ともいわれた~
本丸下の曲輪跡
馬出曲輪跡
登城口
大聖寺城跡縄張図(駐車場案内板)
標高約67メートルの錦城山には、南北朝以後大聖寺城が構築され、加賀の一向一揆の際にも重要な軍事拠点となっていた。現在の配置は豊臣秀吉家臣の溝口秀勝が天正11年(1583)大聖寺領主となって4万4千石で封ぜられた頃に修築したと推定される。本丸を始め二の丸・
鐘ヶ丸などが巧みに配置され、大規模な土塁と空堀で防備を固めていた。慶長3年(1598)溝口秀勝が越後新発田に転封した後、小早川秀秋の重臣であった山口玄蕃頭宗永が7万石の領主として入城した。
慶長5年(1600)、金沢の前田利長は徳川方につき、山口玄蕃は豊臣方となって敵対した。同年8月3日早朝、山口軍千2百に対して前田軍は2万5千の圧倒的兵力で攻めたて、山口父子を始め多くの将兵が討ち死にした。殿閣を焼く煙は天にそびえたという。落城後前田利長はすぐに修築し城代を置いたが、元和元年(1615)の一国一城令によって廃城となり、以後再建されなかった。
藩政時代はお止め山として一般人の入山を禁止したため自然回帰し、鹿や猪も生息していたという。現在でも貴重な動植物が多く、秋の紅葉の美しさから明治時代以後、「錦城山」と呼ばれ親しまれてきた。
なお大聖寺という地名は、古代から中世に栄えた白山五院の1つ、大聖寺という寺名からといわれている。
<現地案内板より>
東丸付近からの眺望
大聖寺城
東丸跡
~大手道の谷を防衛する重要な曲輪であった~
下馬屋敷跡(番所屋敷東下段)
鐘が丸跡
~大聖寺の鐘撞堂(かねつきどう)があったことが名称の
由来とされ、出城的な存在であった可能性がある~
戸次丸(べっきまる)跡
~織田信長の家臣戸次右近広正が築いた曲輪と伝わる~
三の丸(北の丸)跡
馬洗池
本丸北東虎口(裏門)跡
本丸土塁
本丸櫓台上
本丸櫓台跡
城主山口玄蕃頭宗永の碑(本丸跡)
本丸跡
本丸南虎口(正門)跡
本丸跡
登城口にある説明板