あ お や ぎ
青柳城
所在地 | 長野県東筑摩郡筑北村坂北 |
形式 | 山城 |
主な城主 | 青柳清長・頼長 |
遺構 | 曲輪・石垣・堀切・土塁 |
指定・選定 | 県指定史跡 |
訪城年月日 | 2014年10月9日 |
満足度 | A B C D E |
登城難易度 | A B C D E |
車での登城 | 可(山頂の城址公園入口まで) |
大切通し
〜天正8年(1580)、青柳頼長が岩山を切り開き、青柳〜
麻績(おみ)間の通行を容易にした〜
一の郭(主郭)
一の郭(北側)下の石垣
一の郭(北側)下の石垣
〜石の線が横に通っている「布目積み」と呼ばれる積み方で、
信濃地方特有の積み方である〜
一の郭(北側)下の石垣
〜小笠原貞慶時代のものと考えられている〜
五の郭にわずかに残る石垣
城址公園入口にある縄張図
青柳城
清長寺の館跡・その下の寺小路の両側の侍屋敷・青柳城山の山城を合わせた中世の城跡である。始めは、坂北村全部と本城村の大部分を本領にしていた青柳氏の城であった。青柳氏滅亡後、武田信玄は川中島への拠点として改修し天文22年(1553)にここに10日間泊まっている。武田氏滅亡後は小笠原貞慶がまた川中島への拠点とした。天正11年(1583)4月から翌年までの1年間小笠原貞慶と上杉景勝との間で、ここと麻績城の取り合いが4回くり返された。天正15年に青柳氏が滅亡して、小笠原氏の家臣の松林氏が在番している。実戦の行われた数少ない城のうちの1つである。山城には武田・小笠原の改修により、各時代の特色が残っている。
<現地案内板より>
青柳城跡遠望
〜標高905mの城山山頂にある〜
一の郭からの眺望
一の郭
二の郭
冠木門の向こうは二の郭〜一の郭と続く
三の郭
〜ここには冠木門が建つ。麓の清長寺から登山道(大手道)
を登ってくるとこの場所に到達する〜
四の郭
模擬櫓門を通り坂を下ったところにある二重堀切
城址公園入口にある模擬櫓門
山麓の青柳氏居館跡
〜青柳氏の菩提寺清長寺(せいちょうじ)が建つ〜
五の郭と四の郭の間にある土橋
五の郭
〜最初に出くわす郭である〜
五の郭手前にも二重堀切がある