尼崎城
所在地 | 兵庫県尼崎市南城内・北城内 |
形式 | 平城 |
主な城主 | 戸田氏鉄・青山幸成・松平忠喬 |
遺構 | なし |
指定・選定 | なし |
訪城年月日 | @2012年4月14日 |
A2021年1月26日 | |
満足度 | A B C D E |
登城難易度 | A B C D E |
天守内に展示されている縄張図(松平氏時代)
佐々成政の墓
〜成政は領国肥後で起こった国人一揆を鎮めることができず、
豊臣秀吉の命で法園寺で切腹させられた。写真の墓は複製で、
実物は本堂の中に保管されている〜
北浜公園の碑
東堀跡
〜東三の丸外側の堀跡で、今は埋め立てられて
児童公園(北浜公園)になっている〜
櫻井神社(西三之丸跡)境内に展示されている天守閣の棟瓦
二の丸公園(歴史博物館北側)
〜二之丸の北部分にあたり、米蔵があった場所である〜
南浜跡
〜現在は国道43号線と阪神高速道路が走っているが、
松平氏時代は尼崎藩の家老5名の屋敷が建ち並び、
「五軒屋敷」と呼ばれていた〜
明城小学校校庭の外に建つ城址碑
歴史博物館前に並べられている石垣の石
天守跡推定地(歴史博物館北東)
明城小学校敷地内にある尼崎城の模型
〜昭和15年に小学校の教職員と児童が製作〜
本丸跡
〜市立明城小学校(旧城内小学校)が建っている〜
天守入口
天守(北西より)
天守(北側より)
天守と渡櫓(北側より)
天守と渡櫓(東側より)
天守(南側より)
〜天守は本丸跡ではなく、西三之丸北部分に復元された〜
尼崎城
近世尼崎城は、元和3年(1617)に尼崎藩主となり5万石を領知した戸田氏鉄が、翌元和4年から大阪城の西の固めとして築城にかかり、
数年ののち完成させた。藩領は尼崎から須磨にまで及んだ。
4層の天守閣をもつ本丸は3重の堀で守られ、川と海に面した地理的条件を巧みに利用し、海陸両面の備えとして設計された。城地は300
メートル四方で、築城時にはまだ築地町がなく、直接海に面していた。
戸田氏の築城以後、城主は青山氏、松平氏と変わり、その間何度も改造と増築が行われているが、とりわけ青山氏時代には、櫓を増したり
石垣を築き直すなど、大きな改造工事が行われた。城下町が完成したのも青山氏の時代であった。
海上からも街道からもながめられ「琴浦城」「尼丘城」と呼ばれた城も、明治6年(1873)の廃城令によって取りこわされた。大正末には一部
残っていた内堀も完全に埋立られてしまった。。
<北浜公園(城跡東側)に設置されている案内板より>
城跡西方の法園寺(ほうおんじ)には佐々成政の墓がある
外堀として利用された庄下川(尼崎城南側)
本丸南側の内堀跡(明城小学校南側)
城址碑横の説明板(拡大可)
二之丸跡(歴史博物館西側)
二之丸御殿跡(明城小学校校庭)
「尼崎城天守閣遺蹟」の碑(歴史博物館前)
〜実際に天守が建っていた場所は石碑の少し東側とされる〜
模擬の石垣と塀(西三之丸跡)
水堀(模擬)
外観復元天守(平成30年完成)
〜旧ミドリ電化(現エディオン)創業者の安保詮氏が
約12億円の私財を投じて再建し、尼崎市に寄贈した〜
模擬の塀(内側より)
尼崎城復元模型(城跡西方の尼信博物館に展示)
〜本丸北東隅に天守、南東隅に武具櫓、南西隅に伏見櫓、北西隅に塩噌櫓が配され、中央に本丸御殿が建っていた〜
松之丸跡(南城内5付近)
本丸跡天守付近
〜本丸の北部分にあたり、現在は市立歴史博物館
(旧城内中学校)が建っている〜
天守内部(5階)
天守内部(1階)
〜エレベーターが設置されている〜