あくたがわさん
芥川山城
所在地 | 大阪府高槻市原(三好山) |
形式 | 山城 |
主な城主 | 能勢氏・細川晴元・三好長慶 |
遺構 | 曲輪・石垣・土塁・堀切・土橋 |
指定・選定 | 続日本100名城 |
訪城年月日 | 2017年11月19日 |
満足度 | A B C D E |
登城難易度 | A B C D E |
車での登城 | 不可 |
切通し
~この切通しを抜けると中央曲輪群がある~
郭①に建つ城址碑
~芥川山城ではなく城山城と記されている~
中央曲輪群
東曲輪群
郭②(西曲輪群)
大手道と搦手道の合流地点に建つ「城山城跡」の碑
~この先から西曲輪群(主郭部)になる~
郭⑥(西曲輪群)
郭⑨(西曲輪群)
郭③から高槻・茨木方面を望む
大手道石垣
登城口から10分程で東曲輪群に到達する
~写真は郭㉓(上部縄張図参照)~
西曲輪群
登城道(搦手)
~登城道は急坂が少なくて登りやすい~
郭㉒の虎口と土塁
登城口(搦手)の看板に描かれた芥川山城復元図
看板では登城口から40分とあるが、休憩等しなければ山頂
主郭部まで25分ほどである
登城口(搦手)
~高槻黄金の里老人ホームの奥から登山道が付いている~
芥川山城は、摂津峡東岸にそびえる山塊上約500m四方に展開する戦国時代屈指の城郭です。けわしい地形を巧みに利用して土橋や土塁・石垣を随所に構築し、最高所に主郭、防御正面に追手を配置した壮大なつくりになっています。三島平野の最奥部に位置し、芥川越しに淀川流域を一望できる城構えは、実戦に対応する山城の面目躍如たるものがあります。
16世紀前半(永正年間)に、室町幕府の管領、細川高国配下の能勢氏が西国勢と北摂武士団への備えとして築いた城砦にはじまるとされますが、本格的な山城となったのは、天文22年(1553)、阿波徳島から攻め上ってきた三好長慶が管領細川晴元を擁し入城したときと
いわれています。その後、長慶は晴元を追放、永禄3年(1560)に、河内飯盛城(四條畷市・大東市)に移るまで、この地を本拠に畿内近国8か国を支配しました。
長慶は、芥川の灌漑用水整備など領地支配にも力を注ぎ、真上・郡家の「水論裁決状」や「井出絵図」は市の有形文化財に指定されています。また連歌や茶の湯を愉しみ、堺の文化人と交わる一方、キリシタン布教を認め、家臣が集団で洗礼を受けています。
長慶の後、その子義興が城主になりますが、永禄6年(1563)に死去。永禄11年(1568)の織田信長の摂津進攻により三好一族は放逐され、和田惟政が城主となりますが、翌年高槻城へ移り、芥川山城は廃されました。
主郭の発掘調査では、礎石を配した立派な建物跡を検出したのをはじめ、陶磁器、銅銭、碁石などが出土しています。
都市化がすすむ高槻にあって、広大勇壮な往時の姿を伝える芥川山城。私たちは郷土の歴史を語るこの貴重な文化財を、大切に守り伝えていかなければなりません。
<南麓の塚脇バス停前説明板より>
塚脇バス停前説明板に描かれた縄張図
飯盛山城
郭⑫(西曲輪群)
~西曲輪群で南へ突き出た場所にある曲輪で
田ノ丸と呼ばれている~
郭①(西曲輪群)
~西曲輪群の最高所にあり、往時にはこの場所に主郭御殿
が建っていたとされる~
郭②(西曲輪群)
郭①②の虎口
郭③(西曲輪群)
主郭部(西曲輪群)
~奥の段上が郭①②、右手が郭⑨、左手が郭③である~
大手道石垣
大手道石垣
東曲輪群と中央曲輪群を区切る堀切
竪土塁
~郭㉒の南側からまっすぐ南へ伸びている~
郭㉒(東曲輪群)
芥川山城遠景(三好山)
郭⑯
土橋
~東曲輪群と中央曲輪群の間に架かっており、
形状をよく残している~