明智城

 所在地  岐阜県可児市瀬田
 形式  山城
 主な城主  明智光継・光安 
 遺構  曲輪・土塁
 指定・選定  市指定史跡
 訪城年月日  2012年10月16日
 満足度  A B  D E
 登城難易度  A B C D 
 車での登城  可(二の丸跡まで)

二の丸跡

落城時の戦没者を葬った「七ツ塚」(馬場跡)

展望台からの景色

本丸跡にある展望台

中の丸跡

大手口

  可児市は、戦国時代の悲運の武将「明智光秀」の生誕の地である。
  康永元年(1345年)に美濃源氏、土岐下野守頼兼が名字を「明智」と改めて、初代明智家棟梁となり、明智荘瀬田の当地に明智城を築城した。
  以来、およそ215年間、ここに山城を構えていたが、弘治2年(1556年)に当時の美濃国の支配者、斉藤道三とその子義龍の争いに巻き込まれ、義龍に攻められて落城。最後の城主であった光秀は、城の脱出に成功して明智家を再興したが、ここへは戻らず、彼の死後も、再びここに築城されることなく明治維新を迎えた。
  城は自然の地形をうまく利用した典型的な中世の山城で、この山の中央主峰、標高175米の頂上に本丸を築き、ここを中心として、いくつかの別の峰に小城塞、見張り台、城郭施設等を配置させてあったと考えられる。
  居館跡には「光秀産湯の井戸」と伝承されている井戸があり、当時使用されていた土器破片が出土している。また、出丸付近には落城の際の戦没者を葬った「七ツ塚」がある。
  昭和48年には一族の供養塔「六親眷属幽魂塔」が発見されている。
                                                                         <現地案内板より>

明智城

INDEX

明智城跡遠望

搦手曲輪跡

       馬場跡
〜馬防柵が築かれている〜

本丸跡

本丸跡

二の丸跡

西出丸跡

大手門(模擬)

二の丸跡にある縄張図

 概説