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膳所城

 所在地  滋賀県大津市本丸町
 形式  平城
 主な城主  戸田一西(かずあき)・本多康俊
 遺構  移築門
 指定・選定  なし
 訪城年月日  2017年10月1日
 満足度  A B C D 
 登城難易度  A B C D 

              移築現存門
〜城跡公園西方(膳所本町駅東側)にある膳所神社の表門
は、二の丸から本丸への入口であった門が移築されたもの
である(重文)〜

本丸跡にある「膳所城址」の碑

公園西辺の模擬城壁と模擬堀

  関が原の戦いに勝利した徳川家康は、関が原の戦いの翌年、慶長6年[1601年]、東海道を制し、湖上の船運を抑える目的で、現在の膳所城跡公園(膳所崎)に膳所城を築城させました。築城計画は藤堂高虎が担当し、それまで膳所崎に流れていた相模川を北方につけかえたといいます。はじめのお城は、本丸と二の丸、三の丸が分かれていましたが、寛文2年[1662年]の大地震でお城が大きな被害を受け、それまで分かれていた本丸と二の丸を合体させ、東西が最大80間[一間約1.8m]南北最大約55間の規模を持つ本丸として再生しました。本丸の跡は現在、膳所城跡公園となっています。また、それまでの三の丸が二の丸となり、現在は浄水場となっています。江戸時代、東海道を旅する人たちにとって、湖水に写る天守閣はひときわ美しかったらしく、多くの絵に膳所城は描きのこされています。
  現在の膳所城跡公園北側に位置していた天守閣の規模は最上層が3間四方、その下が4間四方、さらにその下が5×6間、最下層が7×8間だったそうです。
  城主[膳所藩主]は、初代が戸田一西、以後、戸田氏鉄、本多康俊、本多俊次、菅沼定芳、石川忠総、石川憲之と続き、慶安4年[1651年]本多俊次が再度の任について以降は、本多家が代々城主を歴任しました。

                                                                         <現地案内板より>

膳所城

INDEX

移築現存門(膳所神社南門)

移築現存門(膳所神社北門)

               城跡遠望
〜左側の櫓風の建物は膳所浄水場で、浄水場辺り一帯が
二の丸であった〜

本丸北側(湖岸)の模擬石垣

本丸跡

公園入口にある模擬城門

城跡公園(本丸跡)入口の案内板に描かれた縄張図

大溝城

 概説

本丸北側(湖岸)の模擬石垣