湯築城

 所在地  愛媛県松山市道後公園
 形式  平山城
 主な城主  河野氏
 遺構  曲輪・土塁・堀
 指定・選定  国指定史跡・日本100名城
 訪城年月日  2011年10月8日
 満足度  A B C  E
 登城難易度  A B C D 

  中世の伊予国守護河野氏の居城、湯築城跡。南北朝期(14世紀前半)から戦国期(16世紀末)まで、250年以上にわたって伊予国の政治・軍事・文化の中心でした。
  現在の道後公園全体が湯築城跡(南北約350m、東西約300m)で、中央に丘陵があり、周囲に二重の堀と土塁を巡らせた平山城です。
築城当初は丘陵部を利用した山城でしたが、16世紀前半に外堀と外堀土塁を築き現在の形態になったものと推定されます。また、江戸時代に描かれた絵図から、東側が大手(表)、西側が搦手(裏)と考えられます。
  河野氏は、風早郡河野郷(北条市)を本拠として勢力を伸ばした一族で、源平合戦(1180〜1185)で河野通信が源氏方で功績を挙げ、鎌倉幕府の有力御家人となり、伊予国の統率権を得ました。承久の乱(1221年)で没落するものの、元寇(1281年)で通有が活躍し、確固たる地位を築きました。また鎌倉時代には、河野氏から出た一遍上人が時宗を興しました。
  南北朝期、通盛の頃には本拠を河野郷から道後の湯築城へと移しました。その後有力守護細川氏の介入や一族間の内紛がありましたが、足利将軍家と結びつき、近隣の大内氏、大友氏、毛利氏などと同盟を保ちつつ伊予支配を維持しました。庶子家との争いも克服し、通直は湯築城の外堀を築き(1535年頃)、娘婿の海賊衆村上(来島)通康との関係を強化しました。最後の当主通直(牛福丸)は、全国統一を目指す豊臣秀吉の四国攻めにより小早川隆景に開城し(1585年)、河野氏の伊予支配に終止符が打たれました。
                                                                      <湯築城パンフレットより>

湯築城

INDEX

内堀と内堀土塁

内堀と内堀土塁

武家屋敷と外堀土塁

武家屋敷(復元)

資料館

西口(搦手)

湯築城資料館にある城址公園全体模型

 概説