結城城
所在地 | 茨城県結城市結城 |
形式 | 平山城 |
主な城主 | 結城政朝・結城政勝・水野氏 |
遺構 | 空堀 |
指定・選定 | 市指定史跡 |
訪城年月日 | 2023年10月12日 |
満足度 | A B C D E |
登城難易度 | A B C D E |
結城政勝の御影堂
〜城跡から南へ約1.3kmの場所にある(結城市結城671)〜
16代結城政勝の墓
右が初代結城朝光、左が2代結城朝廣の墓
慈眼院結城家御廟
〜城跡から南東へ約600mの場所にある(結城市結城2709)〜
慈眼院結城家御廟説明版(拡大可)
館(たて)東側の切岸
館(たて)跡
〜江戸時代はここが本丸で、現在は城跡公園になっている〜
館(たて)と西館の間にある内堀跡
縄張図
結城城は治承年間(1177〜1180年)に結城朝光が築いたとされるが確証はない。むしろ南北朝動乱期に築城されたと見るべきであろう。
その後、結城家は室町時代に関東八家の一に列して勢力をふるい、戦国時代には宇都宮・佐竹氏らと伍して生き残り、天正19年(1591年)
徳川家康の二男秀康を17代晴朝の養子にもらい受け、慶長6年(1601年)越前福井への国替えまで関東の雄として栄えた。
結城氏の転出後、結城城は廃城となったが、元禄13年(1700年)水野勝長(18000石)の入部によって再興され、明治に至るまで水野家
の居城となった。
結城の名を不朽にしたのは永享12年(1440年)の結城合戦である。関東公方足利持氏が将軍義教と争って滅ぶと結城家11代氏朝(1402
〜1441年)は、持氏の遺児春王丸と安王丸を奉じて兵を挙げた。
幕府は諸将に氏朝らの討伐を命じたが、結城落城まで一年余の歳月を費し、結城の名を天下に轟かす結果となったのである。
<現地案内板より>
結城城
15代結城政朝の墓
館(たて)北側の切岸
実城(みじょう)跡
〜結城氏時代の城では主郭であったと考えられている。
奥の高台は館(たて)跡である〜
館(たて)跡からの眺望
水野家顕彰碑
聰敏神社拝殿
館(たて)跡に建つ聰敏(そうびん)神社
〜初代結城藩主水野勝成を祀っている〜
館(たて)跡
内堀跡
結城政勝の御影堂
〜政勝を祀った御堂で、中には政勝の木像が安置されている〜
結城家歴代の墓が並ぶ
内堀跡