横地城

 所在地  静岡県菊川市東横地
 形式  山城
 主な城主  横地秀国
 遺構  曲輪・土塁・空堀・井戸
 指定・選定  国指定史跡
 訪城年月日   2019年11月21日
 満足度  A B  D E
 登城難易度  A B C  E
 車での登城  

中城跡(中城の最高所)

               中城跡
〜東城と二の丸の間に木戸を設け、その傍らに兵器庫、
千飯庫があったとされる〜

       千畳敷
〜城内最大の平場である〜

               藤丸館跡
〜戦死した城主横地秀国の遺児藤丸(元国)は、武田信虎を
頼って甲斐国へ落ち延び、武田家臣となった。館跡は駐車場
の手前(西側)にある〜

二の丸説明板

城跡西方の駐車場に設置された案内図

金玉落しの谷

  鎌倉時代より室町時代にかけて、遠江の古名族として武威を遠近に覇せた横地氏は、平安時代末期に八幡太郎源義家の庶子ではあるが、
長男として生れた家長(永)に始まる。城は自然の地形をたくみに利用した山城で、東端の丘の本丸跡は西に向かって大きく三段を成し、頂上
に土塁が残り、北に向っては数段を構成し、最下部の段に井戸跡がある。この段から北西に向ってのびる尾根はいくつかの切堀で分断され、
各所に段を形成しながら深い谷に向っている。他の方角は険阻な地形ではあるが、やはりいくつかの段が築かれている。
  二の丸は現在神社のある丘で、大きく南に向かってほぼ四段と土塁と濠によって成り、頂上からは落城当時を物語る焼米が出土する。
  二の丸と本丸の中間にある中城は南側に土塁と空壕が、また、中ほどに木戸跡がある。
  家長(永)に始まり十数代遠江に君臨した横地氏も文明年間、同族の勝間田氏と共に今川氏に対抗して敗れ、両将共に討死した。一方戦い
に勝った今川義忠もその帰路、正林寺付近(菊川市高橋)に於いて横地の残党により、命を落とした。義忠の急死は今川家に相続争いをおこ
し、これをおさめることにより伊勢新九郎、のちの北條(条)早雲が台頭するきっかけとなったのである。その後、永正年間に至り、今川氏の遠
州掃討によって横地氏は滅亡し、わずかに生残るものも各地に四散した。
  ここ横地は一族の本貫の地であると共に横地姓の発祥の地であり、城は四百数十年に亘る横地氏一族の夢の跡である。
                                                      
                   <現地案内板より>

本丸跡

本丸跡(東城の最高所)

東城(金寿城)説明板

東城(金寿城)跡

横地城

INDEX

山腹にある横地氏一族の墓

        本丸北側の曲輪
〜堀切で分断されて行けそうになかった〜

本丸下の井戸跡

千畳敷から中城へ

二の丸下にある横地城説明板(拡大可)

二の丸からの眺望

二の丸跡(横地神社)

二の丸下の腰曲輪

二の丸下の空堀跡

二の丸下の空堀跡

         二の丸入口
〜二の丸跡には横地神社が建っている〜

                詰の城
〜詰の城は案内図には表記されていないが、谷田大池に
至る道を行き、池の手前(北東)に標柱がある〜

城跡西方の登城口(駐車場)

 概説

金玉落しの谷説明板