山形城

 所在地  山形県山形市霞城町(霞城公園)
 形式  平城
 主な城主  最上義光・鳥居忠政(鳥居元忠次男)
 遺構  石垣・堀・井戸
 指定・選定  国指定史跡・日本100名城
 訪城年月日   2022年5月11日
 満足度  A  C D E
 登城難易度  A B C D 

最上義光の墓

最上義光の菩提寺である光禅寺(山形市鉄砲町)
    〜最上義光・家親・義俊の墓がある〜

             二の丸跡(北側)
〜二の丸全体の広さは東西約396m、南北約427mあり、
三重櫓1基と二重櫓5基が建っていた。二の丸北側には平成
30年まで野球場があったが、取り壊されて更地になっている〜

二の丸北門外側に建つ城址碑

二の丸北門(北不明門)石垣

二の丸北門(北不明門)跡

二の丸西門(西不明門)跡

二の丸西門(西不明門)跡

二の丸南大手門跡

二の丸南大手門跡

本丸堀(西側)

                                本丸堀(東側)
〜本丸の堀は明治時代に埋め立てられたが、現在は復元整備されている。往時は空堀ではなく水堀であったらしい〜

最上義光騎馬像(昭和52年建立)

本丸一文字門の復原完成想像図(本丸一文字門説明板より)

本丸一文字門の櫓門石垣

本丸一文字門の大手橋(平成18年復元)と
高麗門(平成25年復元)

二の丸跡(東側)

二の丸東大手門続櫓内部

二の丸東大手門続櫓と二の丸堀

二の丸跡(東側)には最上義光の騎馬像が建つ

二の丸東大手門二ノ門(内側)

二の丸東大手門桝形

二の丸東大手門一ノ門

二の丸東大手門(平成3年復元)

        霞城公園(山形城址)案内図
〜輪郭式の平城で、東北地方最大の城郭であった〜

山形城

  山形城は、延文元年(1356年)斯波兼頼により、創建されたと伝えられている。現在の山形城跡は文禄年間(1592〜1595)最上義光
により拡張され、鳥居忠政の時代(1622〜1628年)に、ほぼ現在の形に整えられた。
  昭和61年5月、ニノ丸堀から内側の地域が、近世初期の面影をとどめている全国有数規模の近世城郭として国の史跡に指定された。
  山形城の石垣は、市街地を流れる馬見ヶ崎川の玉石(安山岩)を用い、割肌を表面に見せる野石積みで日本でも類を見ない優美で堅固な
石垣である。
  二ノ丸東大手門は山形城の正門である。桝形の南北両側に多聞櫓をもつ独特な形式の桝形門で、江戸城の諸門に匹敵する規模をもつ。
現在の建物は、幕末の城絵図や明治時代初期の写真等を参考にして日本古来の建築様式で復原され平成3年3月に竣工した。工期45ヶ月
工費11億円余。
                                                                         <現地案内板より>

INDEX

最上家三代墓の説明碑

右:最上家親(義光の次男)の墓
左:最上義俊(家親の長男)の墓

二の丸堀(南大手門跡付近)

復元された本丸東土塁(写真右)

本丸南土塁(復元)

本丸堀(東側)

本丸堀(東側)

               本丸跡
〜広さは東西約150m、南北約160mあり、本丸御殿と
二重櫓3基が建っていたが、天守は建てられなかった〜

二の丸東大手門二ノ門(外側)

 概説

                            本丸の石垣
〜最上氏時代の山形城には石垣はなく、石垣が使用されたのは鳥居氏の時代からだと考えられている。
本丸の石垣は明治時代に壊されて土中に埋まっていたが、現在では見事に復元されている〜

本丸堀(南側)

本丸井戸跡

               本丸跡
〜平成8年に発掘調査が始まるまで、本丸跡はサッカー場
であった。二十数年経った今も発掘調査は続いている〜

二の丸東大手門続櫓

二の丸東大手門北櫓