柳生城・柳生陣屋

 所在地  奈良県奈良市柳生下町
 形式  山城
 主な城主  柳生家厳・宗厳(石舟斎)
 遺構  曲輪・空堀・堀切・土塁
 指定・選定  なし
 訪城年月日   @2000年11月23日
 A2016年3月20日
 満足度  A B C  E
 登城難易度  A B  D E

   幕末の柳生藩家老・小山田主鈴(しゅれい)の屋敷
〜屋敷は嘉永元年(1848)に建造されたもので、県の指定
文化財に指定されている〜

柳生陣屋跡

柳生宗矩の墓

              芳徳寺本堂
〜芳徳寺は寛永15年(1638)柳生宗矩が父宗厳の菩提を
弔うために創建した〜

芳徳寺の前に建つ城址碑

城跡に建つ柳生家菩提寺・芳徳寺

柳生城

山下にある柳生陣屋跡

  柳生城が築かれたのは南北朝時代であるとされ、柳生家の菩提寺・芳徳寺の東南にある小高い山の上に主郭部分があり、芳徳寺のある場所も城域であったと考えられている。天文13年(1544)、柳生家厳が城主の時、大和統一を目指す筒井順昭によって攻められ降伏する。しかし、のちに大和国内では松永久秀が台頭したため、家厳は久秀に従属した。家厳の子宗厳(石舟斎)の時、豊臣政権によって所領を没収され、宗厳は浪人となった。その後、宗厳の五男宗矩は、関ヶ原の戦いで功をあげ、徳川2代将軍秀忠の兵法指南役となった。さらに、3代将軍家光の兵法指南役も務め、寛永13年(1636)、1万石を拝領して大名となった。以後、江戸時代を通して政務は山下の「柳生陣屋」にて行われた。

INDEX

           一刀石(いっとうせき)
〜柳生宗厳が天狗を相手に剣の修行をしていた時、天狗と
思って斬ったところ、そばにあった大石が真っ二つに割れて
いたという伝説がある。場所は柳生陣屋跡東方にある天石
立神社の近くにある〜

               十兵衛杉
〜柳生十兵衛が植えたと伝えられる杉の木(樹齢約350年)
であるが、昭和48年夏の2度の落雷により、現在は枯れて
しまっている〜

家老屋敷の主屋

家老屋敷の長屋門

芳徳寺より柳生陣屋跡を見下ろす

芳徳寺から主郭に向かう途中にある堀切

芳徳寺から主郭に向かう途中にある堀切

        主郭跡
〜残念ながら表示物等一切ない〜

             柳生城の主郭跡
〜芳徳寺のある山の山頂部分が主郭であったと考えられる〜

柳生三厳(十兵衛)の墓

左から春桃御前(宗矩母)、家厳、宗厳(石舟斎)、家重の墓

 概説

家老屋敷の玄関

家老屋敷の殿様用客間

            上泉信綱の供養塔
〜上泉信綱は宗厳の剣術の師で「新陰流」の開祖である〜

芳徳寺裏手にある柳生家墓所