う ね め
采女城
采女城
所在地 | 三重県四日市市采女町北山 |
形式 | 平山城 |
主な城主 | 後藤藤勝 |
遺構 | 曲輪・空堀・堀切・土塁・井戸・土橋 |
指定・選定 | なし |
訪城年月日 | 2018年3月28日 |
満足度 | A B C D E |
登城難易度 | A B C D E |
車での登城 | 不可 |
虎口(大手門跡?)
〜登城口から3分ほど登ると「虎口」の看板が現れる。
ここから先が城域である〜
八の郭
三の郭
〜三の郭も広大であり、一の郭に次ぐ広さがあるように思われる〜
一の郭
登城口
〜登城口は内部川北岸の道路沿いにあるが、付近に駐車場はない〜
藤原氏を祖先とする後藤家の後藤兵衛実基は保元・平治の乱(1159)に武功を顕し、後藤左衛門尉基清が検非違使として京都守護に活躍、元久
元年(1204)平賀朝雅の討伐に奮闘した。
後藤伊勢守基秀は、文応元年(1260)先陣武功があって、三重郡采女郷の地頭職となり一族郎党を引連れて采女の地に移住、采女山(北山)に
城郭を築いた。
以来三百有余年、連綿と治政して続いたが後藤采女正藤勝の時、織田信長の侵略に遭った。
関家・蒲生家に一味して戦ったが、永禄11年(1568)遂に落城した。
言い伝えに因れば、城主・藤勝は討ち死し千奈美姫も主郭の深井戸に身を投げて父の後を追った、哀れなり。
<現地案内板より>
六の郭
〜六の郭は整備がされておらず看板もない〜
五の郭と六の郭を区切る堀切
八の郭からは僅かながら眺望がきく
一の郭と八の郭を区切る堀切(階段上は八の郭)
四の郭土塁
二の郭と三の郭の間にある大空堀
櫓跡の看板
二の郭物見櫓跡
〜二の郭北西隅の土塁上に物見櫓があったと推定されている〜
一の郭と二の郭の間にある大空堀
二の郭
一の郭と二の郭をつなぐ土橋
〜土橋の上に木橋が架かっている〜
落城の際、城主の奥方や姫がこの井戸に身を投げたという
一の郭に残る井戸
一の郭にある案内板
一の郭
〜主郭に相当する城内で最も広い郭である〜
五の郭と一の郭をつなぐ土橋
〜土橋の上に木橋が架かっており、下は空堀である〜
虎口から左方向へ進むと「五の郭」がある
采女城跡遠景
〜采女城は内部川と足見川の合流点の北側にある丘陵上
に築かれていた〜
登城口にある縄張図
四の郭