鳥取城

           太鼓御門跡
〜三の丸への入口となる枡形の櫓門があった〜

 所在地  鳥取県鳥取市東町
 形式  山城→平山城
 主な城主  吉川経家・池田長吉・池田光政
 遺構  石垣・曲輪・堀・井戸
 指定・選定  国指定史跡・日本100名城
 訪城年月日   @1982年7月
 A2013年5月24日
 満足度  A  C D E
 登城難易度   B C D E
 車での登城  不可

  鳥取城は、戦国時代の天文年間(1532〜55)に因幡の守護であった山名誠通(のぶみち)が築いたとする説と、但馬の守護・山名祐豊
(すけとよ)が築いたとする説があり、明らかではない。その後、因幡の国人・武田高信が山名氏に謀反を起こし、鳥取城を奪取している。
しかし、再び山名氏が武田高信から城を奪回し、山名豊国が城主となった。天正元年(1573)、毛利氏の武将・吉川元春に城を攻められ、毛利氏に降るが、天正8年(1580)、今度は織田氏の武将・羽柴秀吉に攻められた。この時、城主山名豊国は重臣たちが抗戦を主張したにもかかわらず、単身で秀吉に降伏した。その後、城主として毛利家臣の吉川経家が派遣されたが、天正9年(1581)、再び秀吉に攻められた。この秀吉による兵糧攻めはのちに「鳥取の渇え殺し(かつえごろし)」と呼ばれ、吉川経家は切腹して開城した。秀吉は与力の宮部継潤を城主とし、のちに5万石を与えた。継潤の子長房の時、関ヶ原の戦いで西軍についたため、城は東軍の亀井茲矩(これのり)に攻められて落城。
代わって東軍の池田長吉(輝政の弟)が近江水口から6万石で入封し、城を近世城郭へと改修した。元和3年(1617)、長吉の子長幸(ながよし)が備中松山に移封となり、続いて播磨姫路から池田光政(輝政の孫)が32万5千石で入封。光政は城をさらに拡張し、城下町の整備を行った。寛永9年(1632)、池田光仲(輝政の孫)が備前岡山から入封し、以後は光仲の子孫が明治維新まで城主を務めた。鳥取城は山頂に山上の丸、山下に天球丸、二の丸、三の丸があったが、元禄5年(1692)、山上の天守が落雷で焼失し、以後再建されることはなかった。また、享保5年(1720)の大火では、天球丸や二の丸、三の丸など建物の大半が焼失したが、これらはのちに再建された。そして、明治に入り、明治12年(1879)、城は陸軍省によって取り壊された。

   南御門跡付近にある吉川経家の像
〜背後にある山は久松山(きゅうしょうざん)〜

          中仕切門(西坂下門)
〜昭和50年に強風で倒壊したが、その後復元された〜

           天球丸の巻石垣(復元)
〜石垣の崩落を防ぐ目的で築かれ、角を持たない形状から
巻石垣と呼ばれた〜

天球丸石垣

         天球丸南東隅にある三階櫓跡
〜享保5年(1720年)の大火(石黒火事)で焼失し、以後再建
されなかった〜

      天球丸風呂屋御門跡
〜天球丸の入口にあった櫓門跡である〜

二の丸の表門である鉄御門(くろがねごもん)跡

     二の丸東端にある菱櫓跡
〜ここには菱形の二重櫓が建っていた〜

               二の丸跡
〜藩主の居館である二の丸御殿があったが、3代藩主吉泰
の時、居館は三の丸に移された〜

三階櫓跡

  二の丸南西隅にある三階櫓の石垣
〜石垣の上に三重の隅櫓が建っていた〜

二の丸へ続く石段と二の丸石垣群

       三の丸跡に建つ県立鳥取西高校
〜3代藩主吉泰の時、三の丸御殿が建てられ、以後ここが
藩主の居館となった〜

         太鼓御門石垣
〜石垣の上には太鼓御門櫓が建っていた〜

          中ノ御門跡
〜大手門となる枡形の櫓門が建っていた〜

内堀

鳥取城

二の丸南東隅にある走櫓跡

 概説
INDEX

            扇御殿跡(現・仁風閣)
〜11代藩主慶栄(よしたか)の未亡人宝隆院の御殿があった〜

          天球丸跡
〜池田長吉の姉・天球院の居館があった〜