け い ろ う ざ ん
龍野古城(鶏籠山城)



| 所在地 | 兵庫県たつの市龍野町上霞城 | 
| 形式 | 山城 | 
| 主な城主 | 赤松村秀・広英 | 
| 遺構 | 曲輪・石垣・土塁・竪堀 | 
| 指定・選定 | なし | 
| 訪城年月日 | 2003年9月14日 | 
| 満足度 | A B C D E | 
| 登城難易度 | A B C D E | 
| 車での登城 | 不可 | 


本丸石垣


本丸跡

八幡宮石畳

本丸の側にあった八幡宮跡

二の丸跡

削平地(曲輪跡)
            登山口
  〜龍野城本丸御殿の裏手に登山口がある〜
  「鶏籠山」の山頂にあるこの龍野古城は、明応8年(1499)に赤松一族によって築かれ、赤松村秀が最初の城主となり、この地域を治めていました。赤松氏は政秀、広貞、広英と城主になり、4代78年続きました。
    天正5年(1577)、織田信長の家臣羽柴秀吉が播磨を平定するため、2万の大軍を率いて揖保川の対岸まで侵攻してきます。この様子を眼下に見た広英は、籠城を覚悟しますが、赤松の滅亡を憂う家臣の諌めにより、城を明け渡し秀吉の軍門にくだりました。
    開城のあとは、蜂須賀正勝、福島正則、木下勝俊、小出吉政など、秀吉の最も信頼する重臣たちが代々城主となりました。その後、1598年頃に山頂の城を取り壊して、ふもとの現在の地に城が築かれたといわれています。
    龍野古城は自然の地形を利用した城で、標高211.8mの山頂に、城の要となる本丸が築かれ、本丸の側には、守護神八幡宮が建てられていました。さらに、本丸より南の小高い部分には、二の丸が築かれていました。石垣は、野面積みの技法を用い、腰曲輪、帯曲輪を連ねており、削平地には、兵営、矢倉、米倉などが配置されていたと思われます。また、敵の攻撃を防ぐため、土塁をめぐらしたり、物見台を設けたり、竪堀り、横堀りなどが作られていました。いまも、その跡に往時を偲ぶことができます。
                                                                           <現地案内板より>
龍野古城
本丸石垣
山麓にある龍野城本丸隅櫓(背後の山が鶏籠山)
本丸石垣