田丸城

 所在地  三重県度会郡玉城町田丸
 形式  平山城
 主な城主  北畠氏・織田信雄
 遺構  三の丸奥書院・富士見門・石垣・堀・空堀・池
 指定・選定  県指定史跡・続日本100名城
 訪城年月日  2013年11月8日
 満足度  A  C D E
 登城難易度  A B C D 

本丸石垣

二の丸跡

本丸石垣(櫓下)

天守台から見下ろした本丸跡

天守台内部

          天守台
〜かつては三層の天守が建っていた〜

本丸東側虎口

本丸石垣(東側虎口付近)

北の丸跡(城山稲荷神社が鎮座する)

           現存する富士見門
〜明治維新の際に他所へ移築されたが、再びこの場所に
移築された〜

三の丸跡に建つ町立玉城中学校

蓮池跡

二の門跡

田丸城縄張図

 概説

二の丸石垣

北の丸北側の大空堀

  田丸城は、南北朝動乱期の延元元年(1336)、後醍醐天皇を吉野に迎えようと伊勢に下った北畠親房が、愛洲氏や度会氏などの援助を得てこの玉丸山に城を築いて南朝方の拠点としたことが始まりとされる。南朝方の拠点である吉野から伊勢神宮の外港大湊に通じる道は、軍事・経済の面からも吉野朝廷にとっては最重要路線であり、玉丸城は北朝・南朝の攻防の舞台となった。
  室町時代には、伊勢国司となり一志郡美杉村の多気に館を構えた北畠氏の支城として伊勢志摩支配の拠点となっていた。天正3年(1575)、織田信長の次男で北畠氏を継いだ織田信雄が、玉丸城に大改造を加え、本丸・二の丸・北の丸を設け、本丸には三層の天守閣を建て田丸城の誕生となった。天正8年には、この天守閣は炎上した。
  江戸時代には紀州藩主徳川頼宣の家老久野宗成が田丸城主となり、久野家は代々城代を勤めた。城は、明治2年(1869)に廃城となり、同4年には城内の建物は取り払われた。昭和3年(1928)、国有林となっていたこの城地の払下げに際し、村山龍平の寄付により町有となり、その後残りの城地も町有化し、町民に開放された。

                                                                          <現地案内板より>

田丸城

INDEX

本丸と二の丸の間の空堀

城跡遠望(JR田丸駅より)

大手門跡と外堀

本丸南側虎口(虎口の向こう側は二の丸)

天守台からの見晴らし

天守台内部

天守台石段

本丸跡(奥に天守台)

北の丸石垣

本丸へ続く大手道周辺の石垣群

二の門跡にある城址碑と縄張図