竹山城
所在地 | 岡山県美作市下町 |
形式 | 山城 |
主な城主 | 新免氏 |
遺構 | 曲輪・土塁・堀切 |
指定・選定 | 市指定史跡 |
訪城年月日 | 2016年12月25日 |
満足度 | A B C D E |
登城難易度 | A B C D E |
車での登城 | 可 |
本丸跡
〜あまり整備されておらず、スペースも狭い〜
最寄駅である智頭(ちず)急行智頭線 「宮本武蔵駅」
武蔵の墓の説明板
西の丸
〜こちらにもテレビ塔が・・・ 城跡にテレビ塔が設置される
事例をいくつか見てきたが、正直勘弁願いたい〜
車道登山口
〜山の北麓から車で上がることができる〜
登山口に設置されている竹山城の説明板
竹山城遠望
馬場跡からの眺望
竹山城は太平記にその名が出てくる中世後期の旧吉野郡第一の山城である。
城は東を大手とし、西を搦手とした。山の姿は北高南低、巽の方は竹林が繁茂しており竹山の名がついた。東から本丸と西の丸、その間に馬場、西の丸の西方に坊主が丸、本丸の東方に太鼓の丸がある。段郭は東方に2ヶ所、馬場の北方に3段ある。堀切は坊主が丸の西に1ヶ所、井戸の跡は東北西の3ヶ所、門の跡は2ヶ所である。戦国山城の立地条件は@天然の要害、A重要地点(因幡街道を見下ろす)、B攻撃の拠点、竹山城はこの3つの条件をみたした山城である。
大原町一帯は山陽側の赤松、山陰側の山名両氏の勢力争いが行なわれた土地である。新免伊賀守貞重は山陽勢力赤松、浦上、宇喜多と結び、明応2年(1493年)山王山城から移ってきて、約2万石を支配したという。家臣を周辺の諸城要所に配置し、その後、宗貞、宗貫の3代108年間、関が原敗戦まで在城した。武蔵の祖父平田将監、父平田無二斎はこの城の家老であり、剣道指範役としても仕えていた。
標高430メートルあるこの城跡は町内随一の展望台であり、眼下に宿場町の面影を残す家並と、南に武蔵生誕地宮本を望み、遠く東に美作富士と呼ばれている日名倉山、北東には岡山県最高峰後山が望まれる。
<現地案内板より>
津山城
武蔵の生家(再建)
〜昭和17年に火災に遭い、現在の姿に建て替えられた〜
宮本武蔵の墓(左側)
右側は武蔵の父平田無二斎と母お政の墓
〜武蔵終焉の地熊本から分骨されたとされる〜
宮本武蔵の銅像
〜武蔵の里五輪坊の前にある〜
「宮本武蔵生誕地」の碑
〜竹山城の南側の集落(美作市宮本)は宮本武蔵の生誕地
とされ、近年は「武蔵の里」として観光地になっている〜
墓のすぐ近くには武蔵を祀る「武蔵神社」がある
武蔵神社には佐々木小次郎の供養塔もある
太鼓丸跡
〜NHKのテレビ塔が鎮座している〜
本丸跡
〜茂みの奥(上)が本丸跡であるが、表示物がないため、
あらかじめ知っていないと通り過ぎてしまう〜
馬場跡の説明板
山頂の馬場跡
〜駐車スペースと説明板がある〜