高取城

 所在地  奈良県高市郡高取町高取
 形式  山城
 主な城主  越智氏・本多氏・植村氏
 遺構  曲輪・石垣・井戸・水堀
 指定・選定  国指定史跡・日本100名城
 訪城年月日  2007年5月3日
 満足度   B C D E
 登城難易度  A B C  E
 車での登城  可(ほぼ山頂の七ツ井戸手前まで)

宇陀門跡

壺阪口中門跡

国見櫓跡からは大和平野を一望することができる

千早門跡(三の丸虎口)

大手門跡

天守台直下に建つ高取城址の碑

太鼓櫓跡から本丸方面を望む

二の丸「太鼓櫓」跡

七ツ井戸付近の石垣群

     ほぼ山頂の「七ツ井戸」側(搦手)の登城口
〜ここまで車で登ることができる。駐車場はないがわずかな
駐車スペースがある〜

  高取城は別名、芙蓉城ともいわれ、近世山城の典型としてよく知られ、巽高取雪かと見れば 雪でござらぬ土佐の城 とうたわれている。
築造年代に関しては元弘2年(1332)との説もあるが確実ではない。しかし、南北朝時代、南大和に大きな力を振るった越智氏の支城の1つとして築かれたことは疑いない。元弘の頃に一時子嶋氏の居城となり、さらに越智氏の居城となった。
  城の形態としては、永正から天文(1504−1554)の頃に、整備されたと見るべきであろう。当初の頃は越智氏にしても高取城をたんに、越智城、貝吹山城に対する出城としか考えていなかったようであるが、自然的要害の条件を備えているところから次第に本城的なものとして重視されるに至ったようである。
  越智氏なき後、織田信長の城郭破却令によって廃城となっていた高取城の復活が筒井順慶によって企図され、天正12年2月、高取城を出城と定め、郡山城ともども工事を進めたのであった。この一国的規模での本城−出城主義の方針は豊臣秀長にも引き継がれ、本格的に近世城郭としての高取城が築かれたのは、100万石の大名として郡山城に入った豊臣秀次と秀保の時代であった。
  その後の歴代城主は本多氏が寛永14年(1637)3代で断絶し、寛永17年10月、植村氏が入部し、明治維新を迎えたのである。

                                                                         <現地案内板より>

          天守台
〜台上には三重の天守が建っていた〜

高取城

INDEX

国見櫓跡

十三間多門跡(二の丸虎口)

           二の丸跡
〜正面の石垣は新櫓と太鼓櫓の石垣である〜

       二の丸跡
〜二の丸にも御殿が建っていた〜

天守台の穴蔵

             本丸跡
〜本丸には天守、小天守、御殿などが建っていた〜

本丸桝形虎口

新櫓跡

山頂に到着し最初に現れる二の丸「新櫓」の石垣

七ツ井戸のうちの1つ

 概説

矢場門跡

松ノ門跡

三の丸跡