高遠城

 所在地  長野県伊那市高遠町東高遠
 形式  平山城
 主な城主  高遠氏・武田氏・保科氏・鳥居氏・内藤氏
 遺構  石垣・空堀・土塁・門
 指定・選定  国指定史跡・日本100名城
 訪城年月日  2000年5月4日
 満足度  A B  D E
 登城難易度  A B C D 

  高遠城は別名兜山城(かぶとやまじょう)とも呼ばれる。築城年代や築城者は不明であるが、戦国時代は諏訪氏の支族高遠氏が城主であった。天文14年(1545)、武田信玄の信濃侵攻によって城は落城し、城主高遠頼継は信玄に降った。信玄は重臣秋山信友を高遠城代とし、城の大改修を行った。この時、信玄の軍師とされる山本勘助が城の縄張りを行ったといわれ、本丸の西側に「勘助曲輪」と呼ばれる曲輪が残る。その後、信玄の四男武田勝頼が城主となる。天正10年(1582)、織田信長が5万の大軍で高遠城を攻撃。当時の城主仁科盛信(信玄の五男)は3千の兵で抗戦するがわずか1日で落城した。江戸時代には京極氏、保科氏、鳥居氏と城主が替わるが、元禄4年(1691)、内藤氏が城主となり、以後明治維新まで内藤氏が城主を務めた。

         建福寺(高遠町西高遠)
〜ここには諏訪御料人(武田勝頼の母)の墓がある〜

諏訪御料人(湖衣姫・由布姫とも)の墓

高遠城跡遠望

本丸跡

高遠閣の前にある高遠城址公園案内図

高遠城

INDEX

問屋門(内側より)と本丸石垣

本丸と二の丸の間に架かる桜雲橋(おううんきょう)と問屋門

空堀

二の丸跡

 概説

大手門跡

三の丸跡