高天神城

高天神城

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三の丸跡

 所在地  静岡県掛川市上土方
 形式  山城
 主な城主  小笠原氏興・信興(長忠)
 遺構  曲輪・空堀・堀切・土塁・井戸
 指定・選定  国指定史跡・続日本100名城
 訪城年月日   @2000年11月4日
 A2019年11月21日
 満足度   B C D E
 登城難易度  A B  D E
 車での登城  不可

                着到櫓跡
〜武田方が攻めてきた時、鐘を打鳴し、戦闘配備をするよう
指示した場所と言われている〜

  本間八郎三郎氏清とその弟丸尾修理亮義清の墓碑
〜天正2年、武田勝頼の攻撃を受けた際に堂の尾曲輪を
守備していたが、両名ともこの地で戦死した〜

         御前曲輪跡
〜顔出し看板は城主小笠原信興夫妻〜

的場曲輪跡

三の丸からの眺望

袖曲輪跡

二の丸跡

馬場平からの眺望

井戸曲輪の井戸

    三ヶ月井戸
〜金魚が泳いでいた〜

搦手道を登って行くと三ヶ月井戸がある

  高天神城は室町時代、駿河の今川氏が遠江侵攻の拠点として築いたとされ、戦国時代には駿河・遠江をめぐる武田氏、徳川氏の激しい攻防の舞台となりました。
  元亀2年(1571)には、武田信玄が徳川方となった高天神城を攻めており、このときは大規模な戦闘は行われませんでした。
  天正2年(1574)5月には、信玄の息子勝頼が当城に攻め寄せ、徳川方の城主小笠原与八郎長史(氏助)は1ヶ月程の籠城と激しい戦闘の末、開城し武田方に降っています。
  その後、武田方となった高天神城は徳川家康の攻撃をたびたび受けることとなります。天正3年(1575)5月の長篠の戦い以降、勢力が衰えた武田氏は当城を支えきれず、天正9年(1581)3月22日、ついに落城しました。高天神城はその後すぐに廃城となり、現在に至っています。
                                                      
                    <現地案内板より>

追手口(大手口)

高天神城跡遠望

追手門跡

本丸土塁

本丸跡

本丸跡

元天神社

            大河内政局石窟跡
〜武田勝頼に攻められて落城した際、徳川方軍監・大河内
政局は勝頼に屈せず、この石窟に8年間幽閉された〜

井楼曲輪跡(堂の尾曲輪北側)

堂の尾曲輪西側の横堀

堂の尾曲輪西側の横堀

堂の尾曲輪西側の横堀

袖曲輪と堂の尾曲輪を区切る堀切(上から)

袖曲輪と堂の尾曲輪を区切る堀切(下から)

袖曲輪虎口

二の丸跡

馬場平

馬場平

高天神社と馬場平を区切る堀切

高天神社

       西の丸跡
〜高天神社の社務所が建つ〜

井戸曲輪から高天神社へ

井戸内部

              鐘曲輪
〜敵兵が攻めて来た時に鐘や太鼓で知らせたという〜

 搦手道と大手道の合流地点
〜案内板が設置されている〜

搦手門跡

             搦手口
〜現在ではここが正面入口のようになっている〜

縄張図

 概説

二の丸堂の尾曲輪跡

高天神社と馬場平を区切る堀切

井戸曲輪跡