た か じょ う
高城
所在地 | 宮崎県児湯郡木城町高城 |
形式 | 平山城 |
主な城主 | 伊東氏・山田有信 |
遺構 | 曲輪・空堀 |
指定・選定 | 町指定史跡 |
訪城年月日 | 2025年3月21日 |
満足度 | A B C D E |
登城難易度 | A B C D E |
車での登城 | 可 |
本丸跡には天守閣を模したメロディー時計台が建つ
本丸跡
第二空堀跡
高城川(現在の小丸川)
高城川合戦場跡説明版(拡大可)
高城川合戦場跡
本丸切岸
メロディー時計台からの眺望
メロディー時計
メロディー時計台内部
第一空堀跡
~遊歩道になっている~
第一空堀跡
第二空堀跡
第三空堀跡
第三空堀跡
第四空堀跡
第五空堀跡
城山公園案内板
高城城跡は、小丸川とその支流である切原川に挟まれ、標高60mを数えます。地形は、舌状に細長く伸び台地であり、見晴らしには大変
優れた所に営まれた山城であります。
この城では、天正6年(1578年)、天正15年(1587年)の2度に渡り、大合戦がありました。その当時、日向で勢力を誇っていた伊東氏が
島津氏に負けて大分に逃げ、親類の大友氏を頼ります。大友氏はこの際、新興勢力の島津氏をつぶそうと、約5万の大軍でこの城を攻撃しま
した。しかし高城城主山田新介有信(やまだしんすけありのぶ)はわずかな兵力でよく防ぎ、とうとう大友軍は大敗しました。これを高城川合戦
と呼んでます。この合戦が原因で、今度は豊臣秀吉の弟、秀長率いる15万の大軍と合戦することになりますが、この時も新介はよく防ぎ、
この城は落城しませんでした。
これらの戦いは、戦国時代の九州において最大規模の合戦であります。またこの高城は、その2度の戦いとも落城しなかった難攻不落の
名城として、名将、山田新介有信の名と共に語り継がれています。
城としての特徴は、現在、城山公園として利用されている箇所が、東側の主郭と考えられる曲輪(くるわ)と考えられています。ここでは島津氏
の家臣であった城主、山田新介有信らが、戦いに備えるための本部として利用していたと考えられます。またこの城に敵が侵入するのを防ぐ
ために、7箇所の竪堀(たてぼり)がみられるのが特徴です。当時の山城にはこういった自然地形を利用して、幾多の戦いを繰り広げております。
平成4年度には、木城町の城山公園整備事業によるメロディー時計台建設に伴い発掘調査が実施されました。その結果、竪穴状遺構、柱穴、
石列、などの遺構、土師器(はじき)と言われる盃、皿、小皿、青磁器、白磁器、陶器などの遺物が確認されました。これらの遺物の時期は、
戦いが繰り広げられた時期に該当し、当時の戦いの状況がより理解することができます。
<現地案内板より>
高城
第四空堀跡
第六空堀跡
第七空堀跡
第七空堀跡
城跡東方にある高城川(耳川)合戦場跡
本丸跡
本丸跡