洲本城

 所在地  兵庫県洲本市小路谷
 形式  山城
 主な城主  安宅治興・脇坂安治
 遺構  曲輪・石垣・水堀・竪堀・井戸
 指定・選定  国指定史跡・続日本100名城
 訪城年月日  2010年5月12日
 満足度  A  C D E
 登城難易度  A B C D 
 車での登城  可(山頂の大手門手前駐車場まで)

東一の門跡

武者溜

  天守台からの眺望
〜洲本港が一望できる〜

馬屋(月見台)

大手門周辺の石垣群

大手口にある縄張図

  三熊山に初めて城を築いたのは、室町時代の末、紀州熊野水軍の安宅氏で、当時の城は土塁や柵で石垣の城ではなかった。
織田信長の天下統一により、安宅氏は滅び、天正10年(1582)、洲本城へ仙石秀久が入り、四国攻めの水軍の城として、石垣の城を築き始めた。天正13年、秀久に代わって脇坂安治が入城。脇坂安治は近江国浅井郡の出身。16才で羽柴秀吉に仕える。天正6年頃、秀吉より輪違いの家紋を賜る。九州攻め、小田原攻め、そして朝鮮の役に水軍を編成して出陣した。山上からの眺望は広く、東の丸の二段の郭は大阪湾や紀淡海峡の海上の監視や、船団の指令所の郭であったと思われる。脇坂安治は慶長14年(1609)まで24年間の在城中、現在見られるような洲本城を築いた。洲本城は水軍の城と言うだけでなく、豊臣秀吉の大坂城の出城であり、大坂城を防衛する城でもあった。山麓の居城と、東西2条の登り石垣で結ばれ、より強固な城となる。慶長3年(1598)秀吉病死のあと、慶長5年関ヶ原の戦いで脇坂安治は徳川方に味方し、領地は安堵された。しかし、秀吉の没後、洲本城の役割はなくなる。慶長14年、伊予大洲城に移る。その後洲本城は使われず、そのまま残された。洲本城の歴史と、天正・文禄・慶長時代の石垣石積みの変化が見られるなど、古城の高い価値によって、平成11年、国の指定史跡となった。城内には多数の瓦片が埋没していて、建物があったことが分かるが、江戸時代の初め一国一城令によって破却されたものと思われる。残された石垣を見ると脇坂安治の城造りや、心の動きを察することができる。

                                                      <洲本城パンフレット(洲本市観光協会発行)より>

洲本城

INDEX

山麓の居館跡(江戸期)
「下の城」とも呼ばれる

西の丸跡

本丸から西の丸に行く途中にある籾蔵跡

搦手口

本丸搦手虎口

         本丸北東隅にある小天守跡
〜大天守と小天守はつなぎ櫓で結ばれた連結式天守という
構造であった〜

         本丸北西隅に建つ模擬天守
〜昭和3年に再建されたもので、模擬天守としては日本最古
のものである〜

本丸大手虎口

本丸東側の石垣 「横矢がかり」

本丸大石段

本丸跡

      南の丸石垣
〜石垣上に隅櫓が建っていた〜

東の丸にある「日月(じつげつ)池」

南の丸跡

東の丸にある「日月の井戸」

大手門周辺の石垣群

大手門跡

 概説

東二の門跡

東の丸二段郭