獅子ヶ城

 所在地  佐賀県唐津市厳木町岩屋・浪瀬
 形式  山城
 主な城主  鶴田前・鶴田賢・寺沢広高
 遺構  曲輪・石垣・堀切・井戸
 指定・選定  県指定史跡
 訪城年月日  2024年4月18日
 満足度  A  C D E
 登城難易度  A B C  E
 車での登城  

二の曲輪の櫓跡

一の曲輪下の馬場跡

二の丸と井戸曲輪の間の堀切

三の丸(南側)の石垣

出丸

出丸西側の堀切

搦手虎口の石垣

本丸

本丸

本丸

本丸

三の丸(南側)

三の丸(北側)

三の丸(北側)

          井戸曲輪から見た二の丸
〜二の丸は元々井戸曲輪と繋がっていたらしく、岩盤を削り
取って堀切が造られた。この場所に橋を架け、両曲輪間を
行き来していたと考えられている〜

井戸曲輪の井戸

井戸曲輪

一の曲輪石垣

三の丸から一の曲輪・二の曲輪へ

三の丸(南側)の石垣

        三の丸に立ちはだかる岩盤
〜岩盤の上に二の丸があったらしいが、登り口はない〜

三の丸虎口石垣

三の丸虎口内部

駐車場にある登城口

駐車場から三の丸へ

                 駐車場
〜城跡までは車道が通じており、三の丸下に駐車場がある〜

縄張図(駐車場に設置された案内板より)

みなもとのたもつ

みなもとのひらく

  獅子城跡は治承〜文治年間(1177〜1190)に峯五郎 源 披 によって築城されましたが、披の子である 源 持 の時に平戸に移ったため
以後長い間廃城になったといわれています。
  持 が獅子城を去ってから、上松浦地方は波多氏の支配下となります。その後佐賀地方に勢力を持つ龍造寺氏の脅威が増すにつれ、上松浦
地方の防備の最前線として獅子城の重要性が再認識されだしました。波多氏をはじめとする松浦党の一統は鶴田越前守 前 に獅子城を再興
させました。前 の子である鶴田上総介 賢 のとき、文禄の役(1592〜)で波多氏が改易となる前後に、多久氏につかえて東多久に移り住んだ
ため、獅子城は再び廃城となってしまいます。
  波多氏改易後の上松浦一円を所領した唐津藩初代の寺沢氏は、当初家臣を獅子城におきました。その際に獅子城を現在見られる石垣造り
の城に改造し、瓦葺きの建物、櫓、門等を建てたようです。大坂夏の陣(1615)以降、全国の城郭の多くが破却されだす頃、寺沢氏も同様に
獅子城を破却し、古城番として監視の武士を岩屋村に常駐させたようです。後に唐津藩代々の藩主も古城番をおきましたが、文化14年(1817)
に幕府領となった際に、古城番は廃止されたと伝えられています。
                                                                           <現地案内板より>

獅子ヶ城

INDEX

本丸北西にある搦手虎口

二の曲輪

一の曲輪石垣

一の曲輪石垣

一の曲輪

三の丸(南側)櫓下の石垣

三の丸(南側)櫓下の石垣

三の丸(南側)櫓跡

三の丸虎口

 概説

          本丸からの眺望
〜厳木町(きゅうらぎまち)岩屋の街並みが見える〜

炭窯跡?(三の丸虎口付近)