島原城

 所在地  長崎県島原市城内
 形式  平城
 主な城主  松倉重政・松倉勝家・高力忠房
 遺構  石垣・堀
 指定・選定  県指定史跡・日本100名城
 訪城年月日  2024年4月17日
 満足度  A  C D E
 登城難易度  A B C D 

二の丸西方(島原商業高校北側)にある時鐘楼

車は天守閣前に駐車できるというアクセスの良さである

島原城内地図

本丸東隅に建つ丑寅櫓(昭和55年復元)

層塔型の五層天守閣(昭和39年復元)

           板倉重昌の墓(江東寺)
〜三河国深溝(ふこうず)藩主。島原の乱では幕府軍の大将
として派遣されたが戦死し、当地に葬られた〜

時鐘楼

            本丸南側の堀
〜城内の堀で唯一、水堀として残っている場所である〜

本丸西側の石垣

本丸西側の石垣

             二の丸跡
〜二の丸跡には文化会館と公民館が建っている〜

二の丸東側の堀

本丸北側石垣

              廊下橋跡
〜この場所に本丸と二の丸を渡す廊下橋があったが、
この橋が本丸への唯一の通路であった〜

廊下橋説明版(拡大可)

本丸跡より二の丸跡(石垣の向こう)を望む

天守東側に建つ天草四郎の像

   天守からの眺望(東方面)
〜島原市街とその向こうに有明海〜

天守内部(2階)

天守閣

天守閣

天守閣

              島原城の入口
〜城の南西にある入口であるが、本来この場所には入口は
なかった。車でも進入でき、天守閣前まで行くことができる〜

INDEX

  この地は森岳といい、有馬晴信が本陣を構えて佐賀・龍造寺隆信軍を撃破したところです。この瑞祥の地に、五条(奈良県)から入封した
松倉重政が島原城を築きました。1618年(元和4年)着工、4〜7年の歳月を経て完成。同時に島原城下町も整備したといいます。
  破風をもたない層塔型総塗込の五層の天守閣を据える本丸。北へ二の丸と三の丸を配置して要所を三層櫓で固め、外郭は4`にわたり
矢狭間をもつ練塀で取囲みました。
  4万石の大名には過分な城です。ここに有馬氏時代からの海外貿易の利益と、松倉氏の新興大名としての意気込みが見られます。
  以来、松倉氏・高力氏・松平氏・戸田氏・再び松平氏と4氏19代の居城として輝きました。その間、1637年(寛永14年)島原の乱では
一揆軍の猛攻をしのぎ、1792年(寛政4年)島原大変時には打続く地震と足下を洗う大津波にも耐えてきました。
  明治維新で廃城になり、払下げ・解体されましたが、島原市民の夢である御城復元への取組みが長年続きました。1964年(昭和39年)
天守閣が復元するなど、次第に昔の面影を取戻しつつあります。
                                                                        <現地案内板より>

本丸南東隅に建つ巽櫓(昭和47年復元)

本丸南西隅に建つ西櫓(昭和35年復元)

松倉重政の墓(江東寺)

時鐘楼の説明版(拡大可)

二の丸西側の堀

     本丸東側の堀(石垣上は丑寅櫓)
〜江戸時代、本丸・二の丸の堀は水堀であったが、
現在はほとんどが空堀になっている〜

本丸虎口(廊下橋跡)

丑寅櫓(内部は民具資料館)

巽櫓(内部は西望記念館)

巽櫓北側の石垣

      天守からの眺望(西方面)
〜島原市街とその向こうに眉山(まゆやま)〜

本丸跡

 概説

島原城主・松倉重政の菩提寺である江東寺(島原市中堀町)

天守と巽櫓

天守と巽櫓

二の丸東側の石垣

天守内部(5階)

天守石垣