し   ぶ   し

志布志城

 所在地  鹿児島県志布志市志布志町
 形式  山城
 主な城主  新納氏・島津氏(豊州家)・肝付氏
 遺構  曲輪・空堀・土塁
 指定・選定  国指定史跡・続日本100名城
 訪城年月日   2023年4月13日
 満足度   B C D E
 登城難易度  A B C  E
 車での登城  不可

         矢倉場にある新納時久の墓
〜新納時久は新納氏初代当主で1357年頃に志布志城に
入城したとされ、以後約180年間、新納氏の居城となった〜

本丸東側にある切通し道
〜城の搦手道にあたる〜

矢倉場(東側)から本丸方面に至る空堀道

大野久尾(おおのくび)と呼ばれる曲輪

中野久尾の虎口と土塁

     中野久尾(なかのくび) と呼ばれる曲輪
〜のくび(野首・野久尾)とは 「細く、狭くなっている土地」
という意味だとされる〜

志布志城は 「内城」 「松尾城」 「高城」 「新城」 の4城から成る(現地案内板)

城の守り神である三宝荒神(本丸上段櫓台上)

三宝荒神

本丸上段

本丸上段

矢倉場

志布志小学校の校舎裏に内城の登城口がある

志布志城の主体部 「内城」 の縄張図(現地案内板)

矢倉場

志布志城

  志布志は、万寿3年(平安時代中期 1026年)に平季基によって開かれた日向国の大荘園島津荘(現在の宮崎県都城市)の港として発達
した。志布志湾に面した前川の河口付近に、河川で浸食・分断された標高50m程のシラス台地の東端に内城・松尾城・高城・新城があり、
この4城をあわせて「志布志城」と呼ぶ。いずれも石垣や天守閣はなく、地形を利用した戦いのための砦のような「山城」である。
  志布志城の築城者と築城年代は正確には不明だが、文献で初めて記載があるのは、建武3年(室町時代 1336年)で、「志布志城の肝付氏
が重久氏に攻められた」という記録が残っている。
  志布志城の領主は、港の所有をめぐって幾度も交代しており、記録に残る領主を大きく分けると、肝付氏−楡井氏−新納氏−豊州家島津氏
−肝付氏−島津氏の流れとなる。
  その後、徳川幕府の一国一城令によって廃城となり現在に至っている。
  「志布志城」の中心である内城の規模は、山城部分だけでも南北500m、東西250mになる。志布志にこのような広大な山城が築かれた
のは、この地が海上交通の要所であり、国内のみならずアジアの各地とつながった国際的な貿易港であったからと考えられる。
                                                                          <現地案内板より>

INDEX

肝付兼続の墓

   肝付兼続の墓所(志布志市 下小西児童公園内)
〜永禄5年(1562)、肝付兼続は志布志城を攻略した後、
隠居して志布志に移り住んだ〜

大野久尾西側の空堀道

本丸西側の空堀道

大野久尾西側の空堀道

矢倉場(東側)から本丸方面に至る空堀道

中野久尾の虎口

本丸と中野久尾の間の空堀道

本丸上段の土塁

本丸上段

本丸下段

本丸下段

本丸虎口

本丸虎口付近の空堀

 概説

中野久尾の土塁

              内城登城口
〜矢倉場と呼ばれる曲輪の下にあり、ここが大手口になる〜

新納時久の墓