大坂城

 所在地  大阪府大阪市中央区大阪城
 形式  平城
 主な城主  豊臣秀吉・豊臣秀頼・徳川氏
 遺構    千貫櫓・多聞櫓・一番櫓・六番櫓・乾櫓・
 大手門・桜門・金蔵・焔硝蔵・塀・石垣・
 水堀・空堀・金明水井戸屋形
 指定・選定  国指定特別史跡・日本100名城
 訪城年月日   1989年2月28日 他
 満足度  A  C D E
 登城難易度  A B C D 

        淀殿の墓
〜太融寺(大阪市北区太融寺町)〜

           京橋口枡形の巨石
〜城内第二の巨石「肥後石」である。岡山藩主池田忠雄に
よって備前から運ばれた〜

                伏見櫓跡
〜二の丸北西隅に建っていた二の丸唯一の3層櫓で、伏見城
から移築されたものと伝わる。昭和20年の空襲で焼失した〜

            乾櫓(現存、重文)
〜元和6年(1620)創建。西の丸の西北(戌亥=乾)の方角
に建つ隅櫓である〜

           六番櫓(現存、重文)
寛永5年(1628)創建。一番から七番のうち、現存するのは
一番とこの六番のみである〜

           一番櫓(現存、重文)
寛永5年(1628)創建。二の丸南側の石垣上には2層2階
の隅櫓が東から西へ一番から七番まで建っていた。この櫓
は最も東に位置することから一番櫓という〜

            青屋口にある青屋門
〜青屋の名は戦国時代この地にあった石山本願寺の寺内町
「青屋町」に由来すると考えられている。昭和20年の空襲で
大破したが、昭和44年に残材を用いて復元された〜

       天守閣と極楽橋(ごくらくばし)
〜極楽橋は豊臣時代・徳川時代にも実在していた。
現在の橋は昭和40年に再建されたもの〜

西の丸庭園(天守最上階より)

豊臣秀頼・淀殿自刃の地(山里丸跡)

               隠し曲輪
〜本丸に唯一築かれた帯曲輪で、出入口が狭くて気付かれ
にくく、兵士を隠す場所であった〜

〜大坂城は熊本城・名古屋城とともに「日本三名城」の1つ
に数えられる〜

           馬印櫓(具足方預櫓)跡
〜本丸の東隅に建っていた3層3階の櫓で、徳川家康が大坂
の陣で使用した馬印が納められていたが、明治維新の大火
により焼失した〜

             桜門(重文)
〜本丸の正門にあたり、明治維新の大火で焼失したが、
明治20年に日本陸軍によって再建された〜

          豊臣時代の天守閣跡
〜豊臣時代の天守閣は現天守のやや北東(本丸北東隅)、
配水池の北側に建っていたと考えられている〜

               月見櫓跡
〜本丸の東隅に建っていた3層3階の櫓で、明治維新の大火
により焼失した〜

     天守閣(昭和6年復興、登録有形文化財)
〜現在の天守閣は徳川時代に再築された時の場所に建て
られている〜

         本丸にある金蔵(現存、重文)
〜徳川時代、幕府の金貨、銀貨を保管した土蔵で、寛永3年
(1626)に創建された〜

   桜門内側にある蛸石(たこいし)と呼ばれる巨石
〜畳36枚分、推定重量約108トンある城内最大の石で、
岡山藩主池田忠雄によって備前から運ばれて来た〜

豊国神社前(二の丸跡)に建つ豊臣秀吉像

石山本願寺推定地(二の丸修道館前)

              南仕切門跡
〜二の丸の西と南の区域を仕切る門があり、左側の石垣上
には2層2階の太鼓櫓が建っていた。慶応4年(1868)、
明治維新の大火によって焼失した〜

            千貫櫓(現存、重文)
〜元和6年(1620)創建。大手口を守る重要な隅櫓で、織田
信長がこの地にあった石山本願寺を攻めた際、1つの隅櫓
からの横矢に悩まされ、「千貫文の銭を出しても奪い取りたい
櫓だ」と兵士たちの間で噂されたことが名前の由来だという〜

 概説

             大手門(現存、重文)
〜ここから二の丸→本丸へと続いて行く。寛永5年(1628)、
徳川幕府による大坂城再築の際に創建された〜

  明応5年(1496)、浄土真宗の蓮如上人が今の大阪城付近に一つの坊舎を営んだ。これはやがて大坂本願寺という大寺院に成長し強大な勢力を誇ったが、天正8年(1580)天下統一をめざす織田信長に屈し、寺院や寺内町は炎上した。
  織田信長没後、政治の主導権を握った羽柴(豊臣)秀吉が天正11年(1583)、大坂本願寺跡に築城を開始。天下人の居城にふさわしい大城郭を築きあげた。しかし秀吉没後、政権は徳川家に移り、慶長20年(=元和元年・1615)の大坂夏の陣により落城した。
  大坂城は2代将軍秀忠の命により、元和6年(1620)から10年の歳月をかけて全面的に再築された。寛文5年(1665)に天守を落雷によって失ったが、幕府の西日本支配の拠点として大きな役割を果たした。明治維新の動乱で多くの建造物が焼失した。
  明治以後、大阪城は陸軍用地として使われた。その中にあって昭和6年(1931)、市民の熱意によって現在の天守閣が復興され、博物館施設として現在に至っている。大阪城一帯は第2次世界大戦の空襲によって損害をこうむったが、戦後は史跡公園として整備された。
                                                                     <大坂城パンフレットより>

大坂城

INDEX

               三番櫓跡
〜多くの観光客で賑わう大坂城も、この辺りはほとんどひとけ
がない〜

               二番櫓跡
〜二番・三番・四番・五番・七番櫓は残念ながら昭和20年の
空襲で焼失した〜

                山里丸跡
〜本丸北端部の一段低くなった曲輪で、豊臣時代にはさらに
一段低くなった西側の芦田曲輪と東側の山里曲輪の2つに
分かれていた〜

本丸御殿跡(天守最上階より)

本丸南側の空堀(内堀)

           多聞櫓(現存、重文)
〜天明3年(1783)、落雷によって焼失したが、嘉永元年
(1848)に再建された〜

大手門付近にある案内図