岡城

 所在地  大分県竹田市竹田
 形式  山城
 主な城主  志賀親次・中川秀成
 遺構  石垣・曲輪・井戸
 指定・選定  国指定史跡・日本100名城
 訪城年月日   2019年4月12日
 満足度   B C D E
 登城難易度  A B C  E
 車での登城  可(西の丸下駐車場まで)

三の丸高石垣

鐘櫓台(西中仕切門)

中川民部屋敷跡から普請方・近戸門方面を望む

中川民部(家老)屋敷跡

大手門跡(内側から)

大手門跡(外側から)

西の丸下(西方)の駐車場に建つ城址碑
〜かつてはこの場所に総役所があった〜

西の丸下の断崖絶壁

  岡城は、文治元年(1185)大野郡緒方荘の武将緒方三郎惟栄が、源頼朝と仲違いをしていた弟義経を迎えるため築城したと伝えられるが、
惟栄は大物浦(兵庫県)を出航しようとして捕らえられ、翌年上野国(群馬県)沼田荘に流された。
  建武のころ豊後国守護大友氏の分家で大野荘志賀村南方に住む志賀貞朝は、後醍醐天皇の命令をうけ、岡城を修理して北朝と戦ったと
されるが、志賀氏の直入郡への進出は、南北朝なかばの応安2年(1369)から後で、その城はきむれの城であった。のちに志賀氏の居城は
岡城に移った。
  天正14年(1586)から翌年の豊薩戦争では島津の大軍が岡城をおそい、わずか18歳の志賀親次(親善)は城を守り、よく戦って豊臣秀吉
から感状を与えられた。しかし、文禄2年(1593)豊後大友義統が領地を没収されると、同時に志賀親次も城を去ることになった。
  文禄3年(1594)2月、播磨国三木城(兵庫県)から中川秀成が総勢4千人余で入部。築城にあたり志賀氏の館を仮の住居とし、急ぎ近世
城郭の形をととのえ、本丸は、慶長元年(1597)に完成、寛文3年(1662)には西の丸御殿がつくられ、城の中心部分とされていった。
  明治2年(1869)版籍奉還後の4年(1871)には、14代・277年間続いた中川氏が廃藩置県によって東京に移住し、城の建物は7年(18
74)大分県による入札・払い下げですべてが取りこわされた。
  瀧廉太郎は、少年時代を竹田で過ごし、荒れ果てた岡城に登って遊んだ印象が深かったとされ、明治34年(1901)に中学校唱歌「荒城の
月」を作曲、発表している。
                                                                        <本丸跡案内板より>

岡城

INDEX

          本丸跡に建つ天満神社
〜祭神は菅原道真で、歴代藩主(中川氏)が守り神として
崇拝していた〜

本丸南東隅の金倉跡

本丸南西隅の三重櫓跡

             本丸跡
〜本丸には藩主の住居である本丸御殿のほか、
天守にあたる三重櫓や金倉が建ち並んでいた〜

本丸石垣・虎口

瀧廉太郎の像(二の丸跡)

二の丸説明板

二の丸跡

三の丸説明板

三の丸跡

太鼓櫓門跡(三の丸入口)

太鼓櫓台

西中仕切門跡

城代屋敷跡

朱印状倉跡

中川但見屋敷跡

中川但見(家老)屋敷下の石垣

中川覚左衛門屋敷埋門

中川覚左衛門屋敷櫓台

中川覚左衛門屋敷跡

中川覚左衛門(家老)屋敷跡遠望

近戸門跡

普請方跡

西の丸石垣

              西の丸御殿跡
〜3代藩主久清の隠居所として建てられたが、江戸後期には
政庁としての機能を果たしていた〜

広大な西の丸御殿跡

西の丸東門跡

西の丸新屋敷門跡

西の丸石垣

西の丸石垣

古大手門跡(内側から)

大手門説明板

 概説

西の丸北側の古井戸

古大手門跡(外側から)

大手門付近からの眺望

大手登城道

大手登城口

慶長元年(1596)頃の岡城推定絵図