おいだいら

大平城

 所在地  静岡県浜松市浜北区大平
 形式  山城
 主な城主  井伊氏(南北朝時代)・徳川氏(戦国時代)
 遺構  曲輪・空堀・土塁
 指定・選定  市指定史跡
 訪城年月日   2020年5月21日
 満足度  A B C  E
 登城難易度  A B  D E
 車での登城  不可

      階段を登りきった所にある五体力神社
~建物右手から城跡に至る山道が付いており、本曲輪まで
徒歩10分程である~

  大平城は、南北500メートル、東西400メートルの南北朝時代の山城(尾根式複郭型山城)である。現在、樹木に覆われているため、外観
では普通の山にしか見えないが、山の南側は複雑に谷が入っており、北側と西側は断崖となっている。また、城の南側前方には灰ノ木川が
流れ、天然の堀になっている。東側は尾根続きとなっているため、大規模な堀割が造られている。
  城は、自然地形を利用して、曲輪を縄張しており、南城と北城の二区画に区分され、一城別郭の形態を成し、北城が中枢部で、南城は二次
的機能を持っていたと考えられる。
  大平城は、南朝側についた引佐町にある三嶽城を本拠とする井伊氏の支城の一つとして築かれた。井伊氏は、三嶽城を中心に、南を浜松市
の鴨江城、西を三ヶ日町の千頭峯城、東を大平城と支城を固めた。
  井伊氏は、南朝の後醍醐天皇の皇子の宗良親王を迎え、遠江国の南朝勢力の中心となった。
  大平城の南朝軍と足利尊氏の命を受けた高師泰率いる北朝軍の攻防戦は、暦応2年(延元4年・1339年)から翌3年(興国元年・1340年)
にかけてくりひろげられた。この時の戦いの様子は、三ヶ日町の大福寺に残る「瑠璃山年録残編裏書」に詳しく書かれている。
  『暦応2年己卯七月廿二日  為井責越後殿下  大平二向給  尾張殿浜名手向給  カモヘノ城廿六日追落畢  同十月卅日  千頭峯城
追落畢  同次正月卅日  ミタ□城追落畢  同次年八月廿四日夜  大平城□落□□。但当国守護新木殿落給』
  この資料を要約してみると暦応二年七月二十二日、北朝方の高師泰(越後殿下)の軍が大平城に侵攻し、高師兼(尾張殿)の軍は浜名方面
に侵攻した。
七月二十六日に鴨江城が落城し、十月三十日に千頭峯城が落城した。翌年の暦応三年正月三十日に三嶽城が落城した。そして、八月二十四
日に大平城が高師泰と遠江国守護の仁木義長の軍によって落城したことが書かれている。
  こうして南朝方は、遠江国での拠点を失い、宗良親王は信濃国へ落ちていった。その後、大平城は歴史の上にも、記録の上にも登場すること
はなかった。
                                                                          <現地案内板より>

大平城

INDEX

北腰曲輪(本曲輪北側下段)

本曲輪跡

本曲輪跡

               本曲輪跡
~整備状態は良くない。右手の鉄柱に「本丸」とマジックの
ような物で手書きされている~

本曲輪南下に建つ城址碑

神社前に設置されている案内板(拡大可)

              登城口
~左方には「大平城趾」の石碑が建てられている~

大平城縄張図(登城口案内板)

 概説