お  で  も  り

小手森城

小手森城

INDEX
 所在地  福島県二本松市針道愛宕森
 形式  山城
 主な城主  菊池顕綱・石川弾正
 遺構  曲輪・石垣
 指定・選定  なし
 訪城年月日  2018年4月20日
 満足度  A B C  E
 登城難易度   B C D E
 車での登城  不可

主郭北東の尾根(曲輪?)には謎の石塔が並ぶ

登城道は途中から階段に変わり、やがて山頂の神社が見えてくる。
この道は本来の大手道とは考えにくいが、実際に大手道がどこに
あったかも判明していない。

神社の社殿が主郭部分の大半を占め、かなり狭い印象を受ける。
社殿の周囲には石塁が残る。

現在、山頂の城跡には愛宕神社が建っており、登城道は神社への
参道となっている。写真中央の鳥居をくぐり、山頂まで一直線に伸び
る山道を登る。10分程度(休憩時間を除く)で登れるが、急斜面かつ
足場が悪くかなりきつい。

  二本松、会津攻めを図っていた伊達政宗は、まず、大内氏の領する東安達の拠点、小手森城への総攻撃を開始した。天正13年(1585)8月23日のことである。城は、大内備前守定綱の臣、菊池顕綱らが守っていたが力尽き、8月27日ついに落成した。政宗は、兵と共に城にこもった農民の老若男女を合せ、八百余名のすべてを斬り殺した。織田信長の比叡山焼き討ちにも比すべきものであった。
  この戦いの後、功により小手森城を与えられた石川弾正は、天正16年、伊達勢に抵抗し小手森城に兵をあげた。政宗は同年閏5月12日優勢な兵をもって、背臣への総攻撃をかけた。戦火はまだおさまらぬわずか3年後、小手森城は再び五百余名が討死にするという悲劇に見まわれたのである。
  豊臣秀吉による全国統一(1590)の2年前のことである。
  時はながれて四百余年、往時を語るのは、地にすだく虫の音と、今なお残る石塁のみである。
                                                                             <現地案内板より>

山頂(主郭)に鎮座する愛宕神社

神社の傍らにある説明板は、城兵・農民合わせて八百余名が籠城
したことを伝えているが、それほど多くの兵を収容できる規模の城
とは到底思えなかった。

 概説