の ち せ や ま
後瀬山城
所在地 | 福井県小浜市伏原 |
形式 | 山城 |
主な城主 | 武田元光・丹羽長秀・京極高次 |
遺構 | 石垣・曲輪・堀切・竪堀・土塁 |
指定・選定 | 国指定史跡 |
訪城年月日 | 2010年5月2日 |
満足度 | A B C D E |
登城難易度 | A B C D E |
車での登城 | 不可 |
後瀬山遠景
〜山の下を後瀬山トンネルが貫通している〜
山上御殿跡
〜全く整備されておらず見る影もない〜
後瀬山城パンフレットより
主郭を囲う石垣
主郭跡に建つ愛宕神社
登山口
いにしえは万葉集にも詠われた後瀬山。古くから小浜に住む人々、また小浜を訪れる人々に憩いをもたらす山として存在しています。この後瀬山に戦国の世に叶った山城が築城されたのは、大永2年(1522)のことです。当時の若狭守護武田元光は、すでに全国的にも飛躍をみせ、海外貿易をも視野にいれた小浜湊を望み、山麓に貫通する丹後街道を掌握する要衝の地にこの城の縄張りを行います。
後瀬山城は標高168mの位置に石垣を配する主郭を置き、ここから山麓の現空印寺の位置にあった居館に通じる北側稜線と、本登山道に平行する東側稜線に、大小あわせて139か所の曲輪と呼ばれる平場の防御施設を設けています。これら2本の稜線に造られる曲輪をつなぐ道路が北東谷間に幾本もみられ「谷の横道」と呼ばれています。また、北側稜線の先端には、畝状竪堀・竪堀などを設け、防御を固めています。このことは、丹後国守護一色氏と度々戦火を交えた若狭武田氏が、西の小浜への入り口(青井口)の防御を強く意識していることを想定させます。
城主は、築城した若狭武田氏五代元光から、六代信豊、七代義統、八代元明へと継承され、若狭武田氏滅亡後は、織豊系武将の丹羽長秀、浅野長政、木下勝俊が相次いで入城し、若狭国を統治する拠点として存続します。そして関ヶ原合戦後に入国する京極高次により後瀬山城は廃城となり、新しく築城が開始される近世小浜城にその役目が引き継がれることとなります。
発掘調査が実施された主郭北西に位置する曲輪では、礎石建物跡とこれに付属する築山、そして多くの茶器類が検出されています。京都や当地において旺盛な文芸活動をみせた若狭武田氏の一端を示す調査例といえるでしょう。
現在地からの登山道は、廃城後に主郭に創建された愛宕神社への参詣道を利用し、歴史と自然を体感できるように遊歩道整備をしています。
<現地案内板より>
後瀬山城
築城者である武田元光の墓(山麓の発心寺)
山麓に建つ空印寺(武田氏居館跡)
城跡から小浜湾を望む
主郭から二の郭、三の郭を見下ろす
主郭虎口
登山道途中にある曲輪群
主郭石垣
主郭石垣
主郭石垣