二本松城

箕輪門手前にある案内板に描かれた縄張図

 所在地  福島県二本松市郭内
 形式  平山城
 主な城主  畠山氏・蒲生氏・加藤氏・丹羽氏
 遺構  石垣・曲輪・堀切・土塁・井戸
 指定・選定  国指定史跡・日本100名城
 訪城年月日  2018年4月20日
 満足度  A  C D E
 登城難易度  A B C D 
 車での登城  可(本丸東直下の駐車場まで)

                 日影の井戸
〜千葉県印西市の「月影の井戸」、神奈川県鎌倉市の「星影の井戸」
とともに「日本三井戸」に数えられる。畠山氏が築城した応永年間
(1400年頃)に造られたといわれ、深さは16mもある〜

本丸東櫓台

天守台下に移築展示されている穴太積の本丸石垣

蔵屋敷跡

                乙森(おともり)
〜本丸直下(東側)にある二の丸とも言える曲輪である。駐車場にも
なっており、この場所まで車で来ることができる〜

                 天守台
〜天守台はあるが天守が建てられたという記録は残っていない〜

本丸枡形虎口

              本丸跡
〜江戸時代になると城の中心は山麓の三の丸に移り、
本丸はほとんど機能していなかったと考えられる〜

本丸直下(搦手)の腰曲輪

三の丸高石垣

本丸石垣

             本坂(もとさか)御殿跡
〜三の丸御殿東方の高台にあり、通称「姫御殿」と呼ばれる御殿が
あった。幕末期の絵図では「新御殿 大御前様御住居所」と記されて
おり、藩主の奥方が住んでいたと考えられる〜

登城口には戊辰戦争で戦死した二本松藩の少年隊(二本松少年隊)
の銅像が建っている

会津若松城

  二本松城は、室町中期に奥州探題を命じられた畠山満泰が築城し、以後畠山氏歴代の居城として140年余り続き、天正14年(1586)伊達政宗の執拗な攻撃により落城しました。豊臣時代、当城は会津領主となった蒲生氏郷の重要な支城として、中通り(仙道)警備の任を与えられ、頂上の本丸やその周辺に石垣が積まれ、近世城郭として機能し始めました。その後、徳川時代初期も会津領として蒲生氏・加藤氏らの支配下にありました。
  寛永20年(1643)二本松藩が誕生し、白河藩より丹羽光重公が10万700石で入城し、幕末まで丹羽氏10代の居城として220余年続きました。
しかし、慶応4年(1868)戊辰戦争に際し、西軍との徹底抗戦で城内・家中屋敷のすべてを焼失し、7月29日に落城しました。
  明治から大正末年までは民間製糸工場として活用が図られ、その後は公園として開放され、春は桜花が全山を包み、ツツジ・フジが彩りを競い、夏は緑したたる庭池、秋は菊人形と紅葉が錦を織りなし、冬は老松にかかる雪景の風情は、市民の憩いの場として、また多くの来園者が訪れています。なお、本丸は平成3年の発掘調査を契機に石垣の修築・復元工事が行われ、平成7年に完成しました。
                                                                             <現地案内板より>

INDEX

松森館(東城)跡

搦手門台石垣

搦手門台石垣

本丸からは西方に安達太良山(あだたらやま)が見える

煙硝蔵(火薬庫)跡

            本丸下南面大石垣
〜蒲生氏時代に築かれた石垣で城内最古の石垣とされる〜

本丸西櫓台

天守台

本丸虎口

本丸石垣

本丸搦手口にある「霞ヶ城址」の碑

             三の丸跡
〜丹羽氏時代にはここに藩主の御殿などがあった〜

枡形を抜け石段を登ると三の丸がある

箕輪門の先にはさらに枡形虎口がある

              箕輪門
〜城下箕輪村の山中にあった樫の木を主材としたため
このように呼ばれる〜

                   箕輪門
〜二本松城の正門であり、江戸初期に丹羽光重によって建造された。
戊辰戦争で焼失したが、昭和57年に再建された〜

登城口にある「霞ヶ城」(二本松城の別名)の碑

 概説

搦手門跡

            新城舘(しんじょうたて)跡
〜二本松城が会津の支城であった時代(蒲生氏時代)、2人の城代
がそれぞれ二本松城内の東城と西城に詰めていたと記録にあり、
その西城にあたるのが新城舘である。ここには二本松少年隊の顕
彰碑が建っている〜

箕輪門(内側から)