み ょ う
名生城


| 所在地 | 宮城県大崎市古川大崎 |
| 形式 | 平城 |
| 主な城主 | 大崎義隆 |
| 遺構 | 土塁 |
| 指定・選定 | なし |
| 訪城年月日 | 2025年10月24日 |
| 満足度 | A B C D E |
| 登城難易度 | A B C D E |


案内板近くに残存する土塁
名生城案内板(大館跡)


名生城跡は標高約43mの青木原台地東端部に立地しています。文献史料での初見は14世紀中頃で、その後は4代大崎満持の子の持直
が城主であったとされます。また、11代大崎義直が家督を相続する以前は名生城主であったといわれます。12代大崎義隆が本拠の中新田城
から名生城に移るのは文献から16世紀後半頃と考えられ、大崎氏最後の拠点となります。
大崎合戦の遠因となった際には、大崎氏家臣の氏家隆継や伊場野惣八郎が名生城を占拠して籠城したといわれます。さらに葛西・大崎一揆
では、蒲生氏郷の討伐軍が名生城に立て籠もった一揆勢を鎮圧した後、城に数ヶ月間籠城しています。氏郷が出城した後は伊達氏家臣の高城
宗綱や宮沢元実などが城番として常駐していましたが、間もなく奥州再仕置により廃城になったものと考えられ、文献にも名生城に関する記事が
みられなくなります。
名生城の範囲は東西約400m、南北約850mとなります。北と東が段丘崖で下方に渋井川が貫流し、南が沢を利用した堀で、西は堀や土塁
によって遮蔽されます。文献では北館、内館、大館(城内)、軍場(軍評定)、二ノ構、三ノ構が記され、小字名には小館があります。発掘調査や
地表に残る堀跡や土塁などから概ね9つの曲輪に分かれるものと推測されます。城内地区では、内部を区画する大堀跡や総柱構造の大型建物
跡と3棟の付属建物跡を発見しています。内館地区で炭化した米や麦、雑穀類が出土したことから穀物を入れた倉庫群の存在が予測されます。
また、小館地区の南辺で東西方向に延びる高さ約2.5mの土塁跡を調査しています。さらに城への出入り口は、土塁の食い違いがみられる
南と西に想定されています。
<現地案内板より>
名生城
大崎神社
小館跡に建つ大崎神社
縄張図(現地案内板)