水戸城

 所在地  茨城県水戸市三の丸
 形式  平山城
 主な城主  馬場氏・江戸氏・佐竹氏・徳川氏
 遺構  薬医門・弘道館(藩校)・空堀・土塁
 指定・選定  県指定史跡・日本100名城
 訪城年月日  2015年10月24日
 満足度  A B  D E
 登城難易度  A B C D 

            三の丸西側の空堀
〜水戸城は台地を掘削して空堀を造り、土塁を築き、石垣を
一切用いない「土の城」であった〜

三の丸跡に建つ水戸市役所三の丸庁舎

       三の丸にある弘道館(特別史跡)
〜江戸末期に9代藩主徳川斉昭が設立した藩校である〜

  本丸と二の丸の間にある巨大空堀
〜JR水郡(すいぐん)線が通っている〜

本丸跡には現在県立水戸第一高校が建っている

  水戸城は平安時代の末期頃、常陸大掾国香の子孫馬場資幹がこの地(現水戸一高)に館を構えたことにはじまり、後に常陸大掾となって府中(現石岡市)に本拠を持ったことから、水戸地方も馬場氏のほかに吉田氏、石川氏など大掾氏の族が栄えたのである。
  15世紀のはじめ(応永年間)、藤原氏の族河和田城主江戸通房が馬場氏を追放し、代わって居城した。それまでの本城の外に宿城(のち二の丸、現在茨城大学附属小、水戸二中、水戸三高)を築くなど、城郭を拡張して約百六十余年間水戸地方を支配したが、太田地方を本拠地として常陸北半を領した源氏の族佐竹氏は、天正18年(1590)秀吉の小田原城攻めに功績を認められると一気に江戸氏を攻め、水戸城を占拠した。こうして54万余石を領する佐竹義宣の本城となり、城郭も一段と拡張され城下町も太田から移された商人によって栄えた。ところが秀吉の死後義宣は石田三成と結んで家康に抗したため、慶長7年(1602)秋田へ国替えを命ぜられ、僅か13年間で水戸を去った。その後は家康の子信吉、頼宣が一時封ぜられたが、慶長14年(1609)に第11子頼房が藩主(25万石、第3代綱條の時から35万石)となってから代々その子孫が継いだ。頼房は二の丸に居館を築き、三の丸を造り三重の濠と土塁を巡らして武家屋敷や町人街を整える一方、徳川御三家として幕府を助けたが、第2代光圀以来尊王の学風を興して天下の大勢を導き、明治維新の源流を開いたのである。
                                                                         <現地案内板より>

JR水戸駅北側にある水戸黄門、助さん、格さんの像

三の丸北辺の土塁

水戸城

INDEX

    二の丸と三の丸の間に架かる大手橋
〜橋の向こうに大手門(二の丸入口)があった〜

           本丸跡に建つ薬医門
〜本丸の表門(橋詰御門)と考えられ、永らく城外に移されて
いたが、昭和56年にこの場所に移築された〜

本丸跡にある説明板

 概説

        杉山門(復元)
〜二の丸から杉山通りへ出る門であった〜

      二の丸跡に建つ市立第二中学校
〜ここは2代藩主徳川光圀による『大日本史』の編集所
「彰考館」があった場所である〜