かねやま

美濃金山城

 所在地  岐阜県可児市兼山
 形式  山城
 主な城主  斎藤正義・森可成・森長可
 遺構  移築門・曲輪・石垣・土塁・雨水井戸
 指定・選定  国指定史跡・続日本100名城
 訪城年月日  2018年11月12日
 満足度  A B  D E
 登城難易度  A B C  E
 車での登城  可(出丸駐車場まで)

本丸御殿礎石

本丸東腰曲輪

本丸東側石垣

大手桝形虎口(手前が一の門跡)

左近屋敷
南腰曲輪
本丸
東腰曲輪
二の丸

水の手門跡(三の丸)

三の丸石垣

三の丸跡

三の丸

                出丸跡
〜出丸跡に駐車場があり、そこまで車で上がることができる〜

  室町末期、天文6年(1537)斉藤道三の命をうけ、その猶子斉藤大納言正義はこの山頂(標高273メートル)に築城烏ヶ峰城と称し、中井戸
の庄の地名を金山村と改めた。
  豪勇無双近隣に武威をふるった斉藤氏も同17年(1548)久々利城主土岐三河守に討たれた。正義時に33才。
  時移り永禄8年(1565)織田信長は東濃経略の拠点として森三左衛門尉可成を封じ、金山城主7万5千石とした。以来森可成・長可・忠政
父子三代の居城として戦国波乱の歴史を彩った。すなわち、可成は元亀元年(1570)9月20日近江宇佐山で浅井・朝倉軍と戦い討死(47才)、
これより先長男可隆も4月25日朝倉攻めに初陣、敦賀手筒山城で討死している(19才)。天正10年(1582)3月9日には甲州武田征伐の途中、信長は金山城に一泊している。同年6月2日未明、明智光秀謀反による本能寺の変で信長(49才)とともに討死した可成三男蘭丸長定(岩村城
主5万石18才)四男坊丸長隆(17才)五男力丸長氏(16才)の三兄弟はともに金山城で出生、信長の側近、近習として仕えていた。
  二代城主二男長可はことのほか武勇にすぐれ「鬼武蔵」といわれた。岩村城主5万石も兼ね信州海津城主でもあった。伊勢長島一向一揆征
伐、武田征伐等に偉功をたてた。可成寺を創建・城の改築や城下町づくりにも意を用いたが天正12年(1584)4月9日、長久手の合戦において
討死(27才)、僅々15年ほどの間に父子6人もの悲報に接した可成室妙向尼の悲歎のほどが偲ばれる。
  三代城主六男忠政金山城で出生、長可の跡目を継ぎ15才で7万石を領し豊臣秀吉に仕えた。金山城の整備拡充を手がけたが九州、小田原
等に転戦、智略の将と重んぜられた。
  慶長5年(1600)徳川家康の命により信州海津城(13万7千5百石)に移封、金山村及び金山城は犬山城主石川備前守光吉の領有となる。
天守、諸櫓等一切をとりこわし木曽川を下して、犬山城郭の増築・修復に使われたという。
  忠政は慶長8年(1603)美作国18万6千5百石に国替えとなり以後13年かけて津山城を完成、現在の岡山県津山市の基をつくった。
  斉藤・森両氏を通じ、在城僅か四十数年であったが戦国動乱の世に名将として武威発揚もめざましい一方で城郭整備「六斉市」をはじめとする
商業振興など城下町づくりにも力をつくした。
                                                                           <現地案内板より>

金山城

INDEX

搦手門跡

金山城想像絵図(現地案内板)

雨水井戸跡

本丸東側石垣

穴蔵跡

           小天守穴蔵跡
〜小天守の下に穴蔵があり、出口が2ヶ所あった〜

本丸からの眺望

本丸跡

               本丸跡
〜本丸には天守、小天守、本丸御殿、櫓が建ち並んでいた
とされる〜

本丸西南隅櫓の石垣

      本丸南腰曲輪
〜武器櫓が建っていたとされる〜

大手桝形説明板

大手桝形虎口二の門跡

大手桝形虎口

二の丸南端の物見櫓跡

二の丸跡

登城口

出丸石垣

出丸石垣

出丸

           大堀切
〜「堀切の小径」という遊歩道になっている〜

 概説

三の丸門跡

出丸東側にある登城口