三雲城
所在地 | 滋賀県湖南市吉永 |
形式 | 山城 |
主な城主 | 三雲行定・定持・成持(しげもち) |
遺構 | 曲輪・石垣・土塁・堀切・井戸 |
指定・選定 | なし |
訪城年月日 | 2016年3月20日 |
満足度 | A B C D E |
登城難易度 | A B C D E |
車での登城 | 可(ほぼ山頂の登城口まで) |
山頂郭の虎口
主郭のさらに奥(上)にある山頂郭
〜ここは物見台として使われた感がある〜
主郭井戸
〜深さは約6mあり、今なお水を湛えている〜
主郭
主郭枡形虎口
主郭への枡形虎口
登城口
〜ここまでは車で登ってくることができる。山腹にある「湖南
市青少年自然道場」の脇から林道を登っていく〜
最初に出くわす郭(兵站地?)
三雲城
三雲城(吉永城)は、三雲氏の主家である安土の観音寺城主・佐々木六角高頼が逃げ込み用の本城として長享2年(1487年)に三雲典膳に築かせた城で、東西約300m、南北約200mにも及ぶ広大な城域を有していました。しかし、織田信長の京都侵攻に際して三雲氏は最後まで主君の六角氏に従ったために、元亀元年(1570年)に織田方の佐久間信盛の攻撃を受けて山裾にある三雲屋敷と供に落城しました。その後、天正年間(1573年〜)には廃城となってしまいましたが、天正13年(1585年)に甲賀市水口町に豊臣秀吉の家臣の中村一氏が岡山城を築いた際に石垣等が用材として持ち去られたと言われています。
城の縄張りの中心部は、4ケ所の郭によって構成されており、北側の郭は約50m×40mの広さがあり井戸も残っています。また北側の郭の北東部分には三方を巨大な石材を用いた穴太積みによって築かれた22.4m×12mの大きな枡形遺構(虎口)が残っています。
当城は、六角氏が度々逃げ込んだことが記録にのこされており、城内には佐々木六角氏の家紋(四つ目結)を刻んだ石が残っています。
<現地案内板より>
山頂郭と出郭とを区切る堀切
山頂郭のさらに奥には「出郭」ともいうべき郭がある
主郭に残る井戸
主郭
主郭にある縄張図
土塁上から見た主郭
主郭土塁