松山城
所在地 | 愛媛県松山市丸之内 |
形式 | 平山城 |
主な城主 | 加藤嘉明・松平氏 |
遺構 | 大天守・櫓・門・塀・石垣・曲輪・堀・井戸 |
指定・選定 | 国指定史跡・日本100名城 |
訪城年月日 | @1981年7月 |
A2011年10月8日 | |
満足度 | A B C D E |
登城難易度 | A B C D E |
車での登城 | 不可(リフトとロープウェーあり) |
二ノ門(現存、重文)
一ノ門(現存、重文)
〜天守への最初の入口である〜
大天守
小天守(左)と大天守(右奥)
左から、南隅櫓(昭和43年復元)
小天守(昭和43年復元)
大天守(現存、重文)
馬具櫓(昭和33年復元)
太鼓門(昭和47年復元)
〜本丸への入口である〜
本丸跡にある縄張図A
松山城は、海抜132mの勝山山頂に本丸、中腹に二之丸、山麓に三之丸(堀の内)を置く連郭式平山城で、敵の侵入を防ぐため、二之丸を取り囲むように山麓から本丸にかけて、全国的にもめずらしい「登り石垣」が配されている。
松山城の創設者は加藤嘉明である。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いにおいて徳川家康側に従軍し、その戦功を認められて20万石となった嘉明は、同7年に伊予正木(愛媛県松前町)から道後平野の中央にある勝山に城郭を移すため、普請奉行に足立重信を命じて地割を行い工事に着手した。翌8年(1603)10月に嘉明は居を新城下に移し、初めて松山という名称が公にされた。
その後も工事は継続され、寛永4年(1627)になってようやく一応の完成をみた。当時の天守は五重で偉観を誇ったと伝えられる。しかし嘉明は松山にあること25年、完成直前の寛永4年(1627)2月に会津へ転封される。そのあとへ蒲生氏郷の孫忠知が出羽国
(山形県)上の山城から入国し、二之丸の築造を完成したが、寛永11年8月参勤交代の途中、在城7年目に京都で病没し、嗣子がいないので断絶する。
その後、寛永12年(1635)7月伊勢国(三重県)桑名城主松平定行が伊予松山15万石に封じられた。寛永16年(1639)定行は、3年の年月をかけ、築城当時五重であった天守を三重に改築する。これは地盤の弱さに起因する天守の安全確保とも、江戸幕府に配慮したためともいわれている。
ところが、9代松平定国(8代将軍徳川吉宗の孫)の天明4年(1784)元旦、落雷で天守が焼失した。焼失後37年を経た文政3年(1820)、父定国の遺志を継いだ11代定通は、復興工事に着手するが、着工16年にして、定通の逝去と作事場の火災で頓挫する。これを引き継いだ
12代藩主松平勝善は、弘化4年(1847)城郭復興に着手、ようやく安政元年(1854)悲願の天守が復興した。
これが現在の天守で、姫路城と並ぶ典型的な連立式天守をもち、慶長期の様式を引き継ぐ、わが国最後の完全な城郭建築といわれる。
<松山城パンフレットより>
松山城
紫竹門(しちくもん、現存、重文)
筒井門(昭和46年復元)
〜伊予松前(まさき)城から移築されたと伝えられる松山城
最大の門である〜
加藤嘉明の像
(山麓のロープウェー・リフト乗り場付近)
天守より本丸を一望
筋鉄門(すじがねもん、復元)
三ノ門(現存、重文)
戸無門(現存、重文)
〜築城当時から門扉がないため戸無(となし)門と呼ばれる〜
太鼓櫓(昭和48年復元)
本丸跡にある縄張図@
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